昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 板東の店がオープン
今回は『1966年12月19日号』。定価は60円だ。
1966年12月1日、巨人・王貞治と恭子さんの結婚式が明治神宮で行われ、その後、招待客1200人の豪華披露宴が行われた。
この号では、その模様、裏側などがたっぷり特集されている。
巨人へのトレード話を断り、引退をほのめかしていた
広島・
森永勝也は巨人入りを了承した。
長谷川良平監督らからの「球界の秩序を守ってくれ」という説得に加え、東洋工業の出向社員だったようだが、松田オーナーから引退後の保証、さらに巨人側からも「1年で首にするようなことはしない。最低でも2年間は契約する」と言われたらしい。
他チームの古株中心選手を獲得し、「最低でも2年」はさすが巨人。厳しい。
一方、逆に巨人入りの決意を語っていた西鉄・
高倉照幸が渋り出していた。球団に借金があったらしいが、自分の移籍で球団に高額なトレードマネーが入ると知り、だったら、それを帳消しにしてもいいじゃないか、と言っていたようだ。
広島はコーチ陣が一新。新たに元近鉄コーチの
根本陸夫がコーチとなった。
当時の広島は東洋工業のコンピューターを使ったデータ野球がかなり浸透し、サインも細かくなっていたらしい。記事では、「根本コーチで人間味を加え…」とあった。
ただ、カープで人間臭いコーチと言えば、シーズン中に長谷川監督と衝突した投手コーチの
藤村隆男がいたが、こちらは首になっている。
熱血指導で知られ、地を這うような打球を放つ、ノックの名手でもあった。秋季キャンプのさなか球団事務所に呼ばれ、解任を告げられたという。
直後、悔し涙を浮かべていた藤村は、
「立つ鳥跡を濁さず。僕がいろいろ言えば、うらみ、ねたみに聞こえるから言わん」
と語り、スカウトへの転向話も断ったという。
ただ、この後、根本の入れ替わるように近鉄入りしている。もしかしたら解任というより、近鉄側から「根本はやるが、藤村をくれ」と話があったのかもしれない。
また、以前書いたように
中日の
板東英二がマッサージ店を名古屋市内に開店した。会社名は「ナゴヤスポーツマンクラブ」。“どんな会社か分からない”と、当時の記事で突っ込まれていた。
板東は自らもネクタイを締め、ほぼ毎日、会社に顔を出していたらしい。
当時、起業する現役野球選手は珍しくなかった。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM