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プロ野球1980年代の名選手

デストラーデ 史上最強クリーンアップを完成させた“D”の矜持/プロ野球1980年代の名選手

 

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

右の秋山、清原に続くスイッチヒッター



 1982年に初のリーグ優勝、日本一に輝いて以来、黄金時代を謳歌していた西武。85年までの3度の優勝、2度の日本一は広岡達朗監督の指揮によるもので、86年からは森祇晶監督が3年連続で日本一に導いて、黄金時代を確固たるものにした。森監督が西武で優勝を逃したのは89年のみ。前年の88年に、いわゆる“10.19”で涙をのんだ近鉄の執念が勝って土壇場で3位に転落したものの、このシーズンも優勝した近鉄とのゲーム差は、わずか0.5という僅差だった。

 そこからがすさまじかった。90年から3年連続で日本一に。日本シリーズでは90年に巨人を無傷の4連勝で叩きのめすと、翌91年には粘る広島を第7戦で退け、その翌92年には“ID野球”を掲げる野村克也監督のヤクルトを熱投の末に撃破した。続く94年からは2年連続で日本一には届かなかったが、95年まではパ・リーグ初の5連覇を達成。80年代の後半と90年代の前半を比較すると、やはり後者に軍配が上がるだろう。

 その強さの秘訣については、これまでもたびたび触れてきた。大きく言えば、投打ともに脇役から控えまでもが充実した戦力を擁して、完成度の高い野球を作り上げたことになるだろう。森監督が目指した緻密な野球が結実したわけだが、決して堅実さだけのチームではなかった。むしろ、堅実さや緻密さよりも印象に残っているのは史上最強とも言われたクリーンアップではないか。

 秋山幸二清原和博の“AK砲”は80年代の後半には完成していたが、V9巨人の王貞治長嶋茂雄ら“ON砲”、広島黄金時代の山本浩二衣笠祥雄ら“YK砲”など、歴代の“最強”を超えたかといえば、疑問符がつく。この“AK砲”を補強し、“最強”と言われるまでに押し上げたのが、89年シーズン途中に入団したデストラーデだ。豪快な本塁打と、打った後の空手のようなアクションで人気を集め、打順は秋山、清原に続く五番打者。“AKD砲”が猛威を振るった期間は長くはないが、3人の長距離砲が並んで3年半にわたって打ちまくった例は、メジャーにもほとんどない。

 右の秋山、清原に続くスイッチヒッター。もともとは右投げ右打ちだったが、

「10歳くらいのとき、バスケットボールのシュートで左手のほうがうまくいくと父親に言ったら、『忘れてた。お前はもともと左利きなんだ』って(笑)。左打席でも遠くに飛ばすパワーには問題ないが、後から始めた分、集中力が必要だった。右打席では左でバットコントロールするほうがスイングしやすかったし、打率も飛距離も右のほうが自信があるね」

 ただ、AK砲の後を打つ有利さについて尋ねられると、笑顔で否定した。

「彼らの後を打つ私、というより、五番に私がいたことでの彼らのメリットのほうが大きいんじゃないかな。パワフルなバッターの前では、投手は走者を出したくないから、ストライクが多くなるしね」

“カリブの怪人”の矜持がにじみ出る。

左右両打席から83試合で32本塁打


 88年シーズン途中にパイレーツへ移籍。実現しなかったが、オフには阪神からの誘いもあったという。翌89年はマイナーからのスタートとなり、そこでバークレオの不振で代わりを探していた西武のオファーを受けた。

 6月20日のオリックス戦(西宮)で「五番・指名打者」として初出場、第1打席こそ右飛に倒れたが、第2打席で初本塁打。その後はハイペースで本塁打を量産していく。最終的には83試合の出場で32本塁打。数だけでなく、飛距離でもファンの度肝を抜いた。

 80年代の最後に、優勝は逃したものの、続く90年代に期待を抱いた西武ファンは多かったのではないか。実際、90年から3年連続で本塁打王、2年連続で打点王。日本シリーズでも3年連続で第1戦に本塁打を放って日本一を呼び込んだ。92年オフに退団してメジャー復帰。その後も森監督の率いる西武は94年までリーグの頂点には立ち続けたが、日本一には届いていない。

写真=BBM
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