昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 スカウト告訴問題新展開
今回は『1967年10月23日号』。定価は60円。
1967年10月7日、雨で順延もあってなかなか決まらなかった巨人優勝がようやく決定。岡山での
阪神戦途中、マジック対象の
中日がサン
ケイに敗れて決まったものだ。
3連覇とあって、さほどこの号内での扱いは大きくない。
しかも、実は
長嶋茂雄、王貞治、
柴田勲、
金田正一らの「優勝座談会」は先週号にあった。「しているはず」で企画したが、しなかったので、「優勝直前座談会」になったものだ。
その中で、先輩方が夜の盗塁王、柴田をからかった部分を抜粋する。
長嶋 去年、おととしと比べたら雲泥の差だね。
王 ユニフォームを脱いだらまた変わっちゃうけどね(笑)。
大橋(勲) 「赤い手袋さらりと捨てて」か(爆笑)。「夜の巷をさまよう男」だ。
長嶋 「きょうも来てます六本木」(笑)。
柴田 失礼させていただきます。もう結構です、俺。
王 でも仕事を一生懸命やればいいんだものね。あれだけ悪くことをしても。
柴田 王さん、ひどいよ。いつも俺は巷をさまよっているように言われているけど、それは違うよ。
金田 イサオ、弁解はいかんぞ。男らしくやれ。
それはさておき。
巻頭は大洋・
三原脩監督の退任決定。もともと球団内に反三原の勢力があり、それが徐々に発言力を高めていた。
60年に就任即優勝、日本一で一世を風靡した名将だが、以後、62、64年以外すべてBクラス。もともと選手や上に媚びず。「俺を好きにならなくてもいい。結果を出せばいいんだろ」タイプだった。
それで結果が出ず、一気に求心力が消えた。
唯一、擁護していたのが、中部謙吉社長だったが、ついに見切ったようだ。
10月1日、三原監督、
別当薫ヘッドコーチと会った後、
「もしBクラスになったら私はオーナーをやめるよ。大洋が弱くなったのは、みんなオーナーである私が悪かった。だからオーナーは弟の利三郎に譲るつもりや。弟は勝負強い男やし、スポーツは何をやらせてもうまいんや。息子の
銀次郎はアマゴルフのチャンピオンやしな。弱いチームのオーナーくらいつらいもんはない。私もバカバカしくなったんや」
と記者に言った。
記者たちは酔っての冗談だと思い、
「いいんですか書いても」と言ったが、
「いいよ、大いに書いてくれ。大きくな」
と逆に念を押してきた。
要は三顧の礼で迎えた三原という大監督を切るために、自身のクビをかけたのだろう。
ピンとこないかもしれないが、当時の三原は、そのくらい影響を持った人物だった。
以前、東映のスカウトが契約金の一部を抜き、それに対し、元選手が告訴した事件を書いた。そのときは元選手を本名、スカウトをイニシャルでAと書いたが、今回は元選手にする。
某日、週べ編集部に蒸発していたAから「本当のことを話したい」と連絡があった。
Aは元選手から850万円の契約金のうち、400万円と着服したとされた。元選手は自身の400万、元選手の兄が50万をもらっただけ、と証言していた。
しかしAは150万を元選手の父、100万を元選手の野球の師匠に払い、残りは税金を代わりに払ったと主張した。なお、父親の領収書はあったが、サインは代理の人間の署名。父はすでに亡くなっていた。
その後、驚くべきことに編集部は元選手を呼び出し、Aと面会させたが、早々に先に席を立ったのは元選手だった……。
話がややこしくなった。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM