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“ヒゲ魔神”が振り返る横浜98年優勝への軌跡/ホエールズ&ベイスターズ70年企画

 

現在、ホエールズとベイスターズ、70年の歴史をまとめた『1950-2019ホエールズ&ベイスターズ70年の航跡』が発売中だ。同書に球団の選手、関係者の証言で歴史を振り返る「時代の証言者」を掲載しているが、同企画をここに公開する。

「その言葉は最後まで口にしないように、と」


現在はファームゲームアナリストを務める


 トレードマークの「ヒゲ」は今でも健在だ。遠くからでも「ヒゲ魔神」だとすぐに分かる。だが、このヒゲの解禁は今年から。球団が、OKの許可を出したことで、復活したという。

「他球団の首脳陣などからは(ヒゲのことを)言われますが、若い選手たちは何も言わないです。知らないと思いますよ、当時のことは」

 引退後は一軍の打撃投手、スコアラーなどを歴任し、現在は二軍に帯同するスコアラー的な仕事のアナリストとして活躍している五十嵐英樹。これからチームを背負っていくであろう若い選手たちのために、多岐にわたりサポートしている。

 1993年、入団時に当時二軍投手コーチだった小谷正勝(現巨人巡回投手コーチ)に多くを学んだ。「体の力を指先に伝えるには、無意識に下半身から上半身へと力が移行しないといけない。そのためには日々のトレーニングが大事だ」と言われ、その意識を高める練習を繰り返した。

 入団当初から一軍で投げていく中で、そのコツもつかんでいく。95年には先発の谷間の投手と、中継ぎとして貴重な戦力に。

「実は体力のない投手でしたから8、9回までは投げられない。一度マウンドを降りてから、2イニング目は体がきついという感じだったから、まあ中継ぎでよかったかな」

 96年ごろになると、チームの若手主力選手が経験を重ね、実力がついてきた。「僕たちの年代を中心として優勝を目指すプランがあったんです。だから先輩投手よりも多くチャンスをもらい経験をさせてもらった」と当時を振り返る。

 投手では、佐々木主浩はもちろん、斎藤隆野村弘樹島田直也川村丈夫三浦大輔というメンバー。野手は捕手の谷繁元信石井琢朗佐伯貴弘波留敏夫鈴木尚典という20代中盤から30台前半の選手がレギュラーとなっていく。

「96年から優勝を狙えると思っていました。97年もそう。そういう雰囲気はあった。ただ『優勝』を言葉に出し始めてから失速したんです。だから98年は、その言葉は最後まで口にしないように、という感じでした」

巨人の打者の五十嵐評を伝え聞いて


力のある真っすぐ、キレのあるストレート、そして気迫あふれる投球でファンを魅了した


 その98年の投手陣の合言葉があった。「何とかして佐々木さんの9回にバトンを渡せ」だ。五十嵐自身は40試合に登板。最後はセットアッパーで存在感を発揮し、「ヒゲ魔神」の愛称で親しまれるも「中継ぎ陣全員で抑えればいい」としか思っていなかった。

 その98年で思い出に残っている試合がある。

「一番印象に残っているのは開幕戦ですね。川村が1安打完封勝ちした試合なんですよ。すげーな、と」

 だが、五十嵐はケガのため、開幕二軍。テレビで観戦していたのだ。

「今思うと(この年の優勝を予見していた)そうかもしれないです」

 5月に戦列に戻り、リーグ優勝に貢献。リーグ優勝の美酒も浴びた。「優勝はうれしかったですが、開幕から一軍にいたらまた違う満足感があったかもしれないと思うんです」とケガを悔やんだ。日本シリーズではシーズン後半からの右ヒジの痛みで思うような投球ができなかったことにも悔いが残っている。

 99年は、もう一度美酒を味わうつもりでキャンプに臨んだが、またもやヒジの故障で手術を受けた。その後、一軍復帰を果たすも、いいときのような指先の感覚は戻らなかった。

 2001年、二軍の巨人戦で投げた後、98年優勝メンバーで当時巨人の阿波野秀幸二軍投手コーチから、巨人の打者の五十嵐評を伝え聞き、引退を決意する。「怖さもない、普通の投手でした」という言葉――。

 8年という短い現役生活。

「8年しか通用しない投手だったと思います。その8年間で、あの横浜のフィーバーぶりを経験できたことはすごく大きかったですね」

 現在も多くのファンがハマスタに詰めかけるが、勝つことで98年のころのようなフィーバーがもう一度起こることを願い、若い選手たちの成長を促すことに邁進している。

文=椎屋博幸 写真=BBM
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