週刊ベースボールONLINE

プロ野球1980年代の名勝負

巨人と日本ハム、最初で最後の日本シリーズ“後楽園決戦”(1981年10月25日、日本ハム×巨人)/プロ野球1980年代の名勝負

 

プロ野球のテレビ中継が黄金期を迎えた1980年代。ブラウン管に映し出されていたのは、もちろんプロ野球の試合だった。お茶の間で、あるいは球場で、手に汗にぎって見守った名勝負の数々を再現する。

後楽園を“シェア”していた巨人と日本ハム


日本一を達成してマウンドの江川らが両手を高々と上げ、喜びを表した


 21世紀となり、元号も平成を経て令和となった現在、若いファンには想像しにくいかもしれないが、球団が同じ球場を“シェア”していた時代があった。その球団とは、現在は東京ドームに本拠を構えている巨人と、北海道のイメージが定着した日本ハム。その球場は、東京ドームの“前身”後楽園球場だった。たびたび日本シリーズの舞台となってきたプロ野球の象徴的存在だが、その後楽園球場を本拠地とする2チームが日本シリーズで激突したのが1981年のこと。プロ野球で初めての珍事であり、おそらくは、今後は見ることができない光景だろう。

 V9という空前絶後の黄金時代もあった巨人は、たびたび後楽園球場で日本シリーズを戦ってきた一方、日本ハムは81年が初優勝。東映時代は駒沢球場を本拠地として“駒沢の暴れん坊”と呼ばれたが、東京オリンピックのために駒沢球場が取り壊されることとなり、61年いっぱいで“追い出される”ことに。翌62年には優勝したものの、このときの本拠地は神宮球場だった。正式に後楽園球場へ“引っ越した”のはオリンピックのあった64年。以降は優勝に縁のないまま、球団も日拓ホームを経て日本ハムに。後楽園球場に本拠地を置いてから、そして日本ハムとなってからの、悲願の初優勝だった。

 下馬評で、巨人が有利とする声が多かったのも当然なのかもしれない。江川卓西本聖ら強力な投手陣に加え、打線には原辰徳という新戦力が加わって、ペナントレースも5月には独走に。9月23日には優勝を決めていた。日本ハムは“優勝請負人”江夏豊の加入もあって後期優勝。ロッテとのプレーオフを制して頂上決戦に駒を進めてきた。

 ところが、蓋を開けてみればシリーズは日本ハムのペースで進む。日本ハムの主催で迎えた第1戦はクローザーの江夏が打ち込まれる場面もあったが、ベテランの“伏兵”井上弘昭がサヨナラ打。第2戦は西本の完投で押し戻すも、巨人の主催となった第3戦も“伏兵”鍵谷康司の逆転二塁打で再び主導権を握った。

 ここまで2連勝していたのがリリーフの工藤幹夫だったが、第4戦、この工藤をベンチから外して温存したことが裏目に出る。中盤からの競り合いに勝てず、巨人が大勝。これで完全に主導権は入れ替わった。巨人は第5戦で西本が完封。日本ハムの主催に戻った第6戦には、シーズン20勝で最多勝、MVPに輝いた江川を先発のマウンドへ送った。

江川が投げ、原が打つ


 巨人は2回表、篠塚利夫の適時打で先制すると、その後も山倉和博の犠飛、河埜和正の押し出し四球で、一挙3点。3回表にも原のシリーズ第2号で2点を追加する。新人の日本シリーズでの2本塁打は巨人の先輩で、同じ三塁手でもあった58年の長嶋茂雄に続く快挙だった。

 対する日本ハムも6回裏に井上がソロ本塁打を放って1点を返すも、続く7回表には河埜のソロを浴びて、ふたたび5点差に。8回裏にも連打などで2点を返すも、届かず。日本ハムも9回表に江夏を投入して逆転を期したが、最後は江川が内野フライをキャッチして完投勝利。その瞬間、“後楽園球場の三塁側”にいた巨人ナインが、ベンチから一斉に飛び出した。

1981年10月25日
日本ハム―巨人 日本シリーズ第6戦(後楽園)

巨人   032 000 100 6
日本ハム 000 001 020 3

[勝]江川(2勝0敗0S)
[敗]間柴(0勝2敗0S)
[本塁打]
(巨人)原2号、河埜2号
(日本ハム)井上弘1号

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング