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“カリブの怪人”デストラーデがスイッチになった理由

 

左右両打席から本塁打を連発。独特のガッツポーズで球場を沸かせたデストラーデ


 現在発売中の週刊ベースボールは外国人選手特集。目玉企画はこれまで在籍した全外国人選手の名鑑だが、その数は実に1256人に及ぶ。球史に残る印象深い助っ人は多くいるが、その中の一人が1989年シーズン途中に来日し、西武の一員となったデストラーデだろう。

「1年目から日本になじめたのは、6歳のときにメキシコを通ってアメリカに亡命していたからさ。外国に順応する、という経験は初めてじゃなかったからね」というデストラーデ。アメリカではフロリダを経てニューヨークへ移ったが、生活苦もあって9歳でフロリダへ戻り、マイアミにあるキューバ出身者のコミュニティーで暮らした。ここで、野球を始める。右打者だったが、元来は左利き。左打者に転向したものの、左投手の変化球にタイミングを崩され、左投手のときだけ右打ちに戻すようになった。これが西武黄金時代に、左右両打席で本塁打を量産して“カリブの怪人”と恐れられた助っ人スイッチヒッターの誕生だった。

 89年6月に来日。20日のオリックス戦(西宮)に「五番・DH」で先発出場、2打席目には来日第1号本塁打を放つ。8月13日のオリックス戦(西武)ではサヨナラ満塁本塁打もあり、最終的にはわずか83試合で32本塁打を放っている。

「クレイジーなペースだろう。メジャーではスタメンじゃなかったから、妻やエージェントと相談して、日本で挑戦してみようと決めたんだ。僕は日本で成功しようとハングリーだったからね」

 その一方で、陽気な性格。本塁打を放った後の空手のようなパフォーマンスでファンから愛され、秋山幸二伊東勤ら主力に年齢が近い選手が多かったこともあり、チームのムードメーカーでもあった。

 翌90年は全試合に出場して、42本塁打、106打点で打撃2冠に輝き、2年ぶりのV奪還に大きく貢献。巨人との日本シリーズでは開幕戦の第1打席で3ランを放つ。

「シリーズのMVPになると心に誓っていたんだ。あれは生涯最高のホームラン。5万人の大観衆なのに、音がまったく聞こえなかった。あんなに集中した瞬間はないよ。ボールがスローモーションのように来て、打った。あの瞬間は一生、忘れない。今でも、ちょっと嫌なことがあると、あのVTRを見たら気分が良くなるんだ(笑)」

 これが起爆剤となり、西武は4連勝で日本一に。デストラーデは打率.375もマークし、MVPに輝いている。翌91年も39本塁打、92打点で2年連続打撃2冠。続く92年は41本塁打で3年連続本塁打王に。日本シリーズでも史上唯一の3年連続開幕戦第1打席本塁打で、西武を3年連続日本一に導いた。

95年5月9日のオリックス戦(富山)ではマウンドに上がった


 そのオフ、“第2の故郷”フロリダに新設されたマーリンズに誘われ、メジャー復帰。1年目こそ四番に座ったが、2年目は不振に陥り、マイナー降格か退団を迫られた。これを知った西武の堤義明オーナーが自ら動き、95年に日本復帰。5月9日のオリックス戦(富山)では0対9とリードされた8回裏二死から緊急登板もあった。

「楽しかったよ。あんまり良くなかったけど(打者3人に対して被安打1、連続四球で降板)。素晴らしい投手だった東尾(修)監督は頭にきただろうけどね(笑)」と振り返るが、家庭の問題もあって6月15日に退団、帰国して、そのまま引退した。

「90年代は日本のプロ野球にとって転機だったと思う。野茂(英雄。近鉄に90年入団)はセンセーショナルだった。彼の第一印象はとても悪い(笑)。三振ばかりで、森(祇晶)監督に呼ばれて『オーレ(オレステス)、どうした?』なんて言われたこともある。彼との対戦は楽しかったね。彼がメジャーに去り、日本ではJリーグが始まった。日本のプロ野球が忘れかけられた。日本の子どもたちは、メジャーにあこがれるようになった。90年代に起きたことは、今の日本プロ野球につながっている。その90年代に、僕は日本でプレーしていたんだ」

 西武黄金時代の記憶は、そこに大きな足跡を残した助っ人の中でも鮮明だ。

写真=BBM
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