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夏の甲子園名勝負

熊本工の“起死回生の同点弾”vs.松山商の“奇跡のバックホーム”/夏の甲子園名勝負

 

いよいよ第101回大会を迎える夏の高校野球。1915年、つまり大正4年に始まり、昭和、平成という時代を経て、この夏が令和最初の大会でもある。昨夏、平成最後の大会となった100回までの長い歴史の中で繰り広げられた名勝負の数々を、あらためて振り返ってみる。

9回二死から熊本工が息を吹き返す


延長10回裏、サヨナラ犠飛を防いだ松山商


 100年を超える長い歴史を誇る夏の甲子園。それ以上に長い歴史を持つのが松山商の野球部だ。創部は1902年と明治時代。第1回大会から13年も前のことだ。初出場は、今からちょうど100年前、1919年の第5回大会。出場は2001年が最後だが、それまで夏だけで26回の出場、5回の優勝を数える伝統校だ。

 その最後の優勝が1996年の第78回大会。決勝では、歴史の長さでは松山商には及ばないとはいえ、やはり伝統校と激突した。

 対する熊本工の創部は1923年と大正時代。初出場は1932年と昭和に入ってからだが、そこから夏だけで20回、今年の第101回大会で21回目となる。ただ、優勝は春夏を合わせても1度もない。この第78回大会は、初優勝が懸かる一戦でもあったのだ。

 ただ、松山商も負けるわけにはいかない。前年の夏から3季連続出場となるが、夏春と初戦で敗退し、雪辱を期して臨んだ大会。1回戦で2年生の新田浩貴が東海大三を完封、続く2回戦は東海大菅生の追い上げをかわして1点差で逃げ切ると、3回戦は新野に快勝、準々決勝では春の王者でもある鹿児島実を撃破し、準決勝でも福井商を破って10年ぶりの決勝へとコマを進めた。

 一方の熊本工は接戦に次ぐ接戦を勝ち抜いて、プロで“打撃の神様”と呼ばれる川上哲治(のち巨人)を擁して以来の59年ぶりとなる決勝進出だった。

 試合は初回から動いた。1回表一死から、松山商は3連打と連続押し出し四球で3点を先制して主導権を握る。追う熊本工は2回裏に敵失を挟む2安打で1点を返した。そこからは熊本工の園村淳一、松山商の新田による投手戦に。ともに毎回のように走者を背負うも、粘りの投球を続ける。

 熊本工は8回裏に左安打と犠打、死球に犠飛で、ようやく1点を返すも、後続が続かず。9回裏も連続三振で二死まで追い込まれる。打席には六番で1年生の沢村幸明。その初球だった。打球は左翼席へライナーで突き刺さる。そのまま、試合は延長戦へと突入していった。

控えの外野手が見せた奇跡のプレー


 延長10回裏、今度は松山商が追い詰められる。新田が先頭打者に二塁打を浴びて降板、四番打者でもある渡部真一郎がマウンドに立った。だが、犠打で一死三塁となり、そこから2者を敬遠。ここで右翼に回っていた新田に代わって、強肩を誇る矢野勝嗣が守備に就く。その直後だった。渡部の初球は、代わったばかりの矢野への大飛球となる。深い位置で捕球した矢野。その送球は山なりに見えた。

 誰もがサヨナラ犠飛と思っただろう。だが、送球は捕手の石丸裕次郎が構えるミットにダイレクトで収まる。これでタッチアップしていた三走が憤死。勢いを得た松山商は、続く11回表に3点を勝ち越し。その裏は無得点に抑え、三沢との引き分け再試合を制した1969年に続く27年ぶりの全国制覇を果たす。

 それは史上唯一となる大正、昭和、平成の3時代すべてでの優勝でもあった。


1996年(平成8年)
第78回大会・決勝
第14日

松山商 300 000 000 03 6
熊本工 010 000 011 00 3
(延長11回)

[勝]渡部
[敗]園村
[本塁打]
(熊本工)沢村

写真=BBM
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