ドラフト史上に刻まれた数々の事件と、そこで生まれた「言葉」を紹介。運命に翻弄された男たちは、何を思い、何を語ったか。当時の写真と事件の背景とともに、振り返ってみたい。 1969年・荒川堯
大洋に入団後、すぐにヤクルトへトレードされた荒川
1969年、早大のスラッガーとして大学球界の花形スターだった
荒川堯は、義父の博氏がコーチを務める
巨人か、自身の“ホーム”神宮を本拠地とするヤクルト以外は拒否という姿勢を鮮明にしていた。しかし、ドラフトでは大洋(現
DeNA)が強行指名。荒川は拒絶の構えを崩すことなく、交渉は平行線をたどった。
「ドラフトに反抗するのは僕だけではない。自分が思ったとおりに生きられないなんて……」
制度の矛盾を攻め、無念の思いを隠すことなく大洋の誘いを拒む態度に、悲劇が訪れる。翌70年の1月5日、自宅近くを歩いていたときに、暴漢に襲われて後頭部にケガを負ってしまう。犯人はいまだ謎のままだが、ドラフトの結果にあらがう荒川への不満を持つ者の犯行とされ、世間を騒がせた。
その後、荒川はアメリカ留学を経て、大洋の交渉権が切れる寸前の10月に入団、12月にヤクルトとの“密約トレード”が成立した。
晴れて希望をかなえた荒川だが、事件の後遺症と思われる視力低下に悩まされ、大成しなかったことは悔やまれる。実働5年でユニフォームを脱いでいる。
写真=BBM