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パンチ佐藤の漢の背中!

林昌範[元巨人ほか]自動車教習所の取締役として奮闘する日々/パンチ佐藤の漢の背中!

 

巨人日本ハムDeNAと3球団を渡り歩き、どのチームでも投げまくったサウスポー。通算421試合登板、99ホールドは堂々たる実績だ。そんなタフなリリーフ左腕だった林昌範さんは、現在、家業の自動車教習所の取締役として日々、奮闘中である。千葉・船橋市内の教習所を、パンチ佐藤さんが訪ねた。
※『ベースボールマガジン』7月号より転載

プロ入り直後、折れそうな心を励ましてくれた高橋コーチ


林昌範氏(左)、パンチ佐藤氏


 市立船橋高時代には、大型左腕として注目され、スカウト垂涎の的だった。ところが3年夏の県大会前、外野守備中にセンターと交錯して、左足首を故障。以降、スカウトの姿は林さんの前からプッツリと消えた。

 大学進学を考えながら、迎えたドラフト当日。学校にやってきた記者も2人程度で、林さんはいつもどおり、教室で授業を受けていた。そこへ入った、校内放送。校長室へ行くと、「巨人のドラフト7位指名」を告げられた。その後、記者会見が行われたときには、記者の数が、一気に20、30人まで増えていた。

パンチ ジャイアンツに入って最初に衝撃を受けたのは、どんなことでしたか。

林 原(辰徳)さんが監督、斎藤雅樹さんや村田真一さんといった、自分が小学生時代に見ていた方々がコーチングスタッフにいらっしゃるということが、まず信じられませんでした。それから2月、二軍キャンプからスタートしたんですが、3日くらいで、もうやっていけないんじゃないかなと思いました。

パンチ 僕はキャンプ1日目だったよ(笑)。外野守備で、これはダメだと思った。林君の場合は、どこでヤバいなって思ったの。

林 2月1日、ブルペンに入ったとき、隣で柏田貴史さん、木村龍治さんといった方々が並んで投げていたんです。周りが投げているのを見ると、ストレートの質がまったく違いました。「これは無理だな」と思っていたところ、二軍投手コーチの高橋一三さんが毎日個別練習で、僕の気持ちが折れないよう引っ張ってくださったんです。

パンチ そのとき、高橋コーチから学んだことは。

林 とにかく、ひたすら練習すること。プロの世界ですから「自分よりうまい人がいたら、その人より練習しなければ勝てない。この世界では生き残れないんだぞ」とずっと言われていたんですが、正直18歳の自分はなかなか理解できなくて、遊びたいときもありました。そこで高橋コーチが首根っこをつかんで「今日はこの練習」と、みんなに追いつけるよう導いてくださいました。

市立船橋高からドラフト7位で2002年に巨人へ入団した林氏(左上)


パンチ 「今日1日ぐらいは」と思ってしまうことがダメなんだね。僕は開幕を一軍で迎えて、ロッテ村田兆治さんから三振してね、一軍の開幕ピッチャー、エースはこういうレベルなんだ、この人を打てたらプロでやっていける、打てなかったらやっていけない、という基準が見えたんだけど、林君の場合はどうだった?

林 同級生のドラフト1位に、真田裕貴というピッチャーがいたんです。僕も彼も開幕は二軍だったんですが、彼は二軍でもローテーション・ピッチャー、僕は敗戦処理や、二軍の試合にも行けないところからのスタートでした。そこで高橋コーチに言われたのは、「真田はドラフト1位だから、もうレールが敷かれている。でも7位のお前に、レールはない。だからこそ真田より勝てるよう、考えなさい」ということ。投球術にしても、体力にしても、ですね。実際1年目から彼は一軍に上がって6勝し、その年ジャイアンツは日本一になった。同じ寮にいながら、別世界の人間でしたね。1年目のオフは、「なんとかアイツに勝ちたい」という思いで練習しました。

パンチ じゃあ、真田君という身近な目標があったんだね。追いつき追い越したな、と思えたのはいつごろ?

林 真田は1年目の後半から一軍のローテーション・ピッチャーで回っていて、2年目も途中までローテに入っていたんです。一軍の先発のコマが足りなくて、たまたま僕が一軍投手コーチの鹿取(義隆)さんに上げていただいて初先発を言われた日に、真田が中継ぎになったんですよ。そのあたりから追いついた、彼と立ち位置が変わってきたかなと思いました。

1カ月間の外出禁止がまたとない学習機会に


パンチ そこには何か転機があった?

林 2年目、ファームの開幕戦のローテに入ったんですが、その一発目でやらかして、1カ月外出禁止になったんです。

パンチ 何をやらかしたの!? それは、ここで書けること?

林 満塁になって、ピッチャーゴロをバックホームするとき悪送球してしまったんです。結局3、4点取られて、5回持たずにKOです。淡口憲治二軍監督に「1週間に1回のローテを回すと言ったのに、ああいうミスをしたのはどう思う?」と聞かれて、「次、取り返します」と答えたら、「一軍でそれをやったら、もう二度と(登板は)ないよ」と。その反省を込めて、1カ月の外出禁止。そのとき、ちょうど阿部慎之助さんが、ケガで二軍にいたんです。それで阿部さんと毎日、寮でナイターを一緒に見て、一軍のことや配球についていろいろ勉強させていただきました。同時に、淡口監督から毎日レポートを書くよう課せられたんですが、初めは「今日はこういう試合だった」程度だったものが、だんだん「自分がマウンドにいたら、こうしていた」という内容に変わってきました。それまでは一生懸命投げていただけだったのが、マウンドで考えることができるようになりました。

パンチ 最高のイメージトレーニングが、その1カ月でできたわけだね。

林 はい、高橋さんにそのレールを敷いていただいて、感謝しかありません。

パンチ それは林君が真面目に、素直に練習に取り組んだこともあると思うよ。技術的にはそこで、どのへんがグッと成長した?

林 初登板(2003年6月28日、中日戦)当日のブルペンで試合前、阿部さんに20、30球投げたんです。真っすぐとスライダーを投げて、「終わりです」と言ったら、阿部さんが「は?」「おまえ、これで勝負するの?」と(苦笑)。当時、フォークを練習していたんですが、まったく落ちなかったんですね。それを話したら、「楽なカウントで、ボール球でもいいからフォークを放ってこい。“フォークもあるよ”と見せないと、厳しいよ」と言われました。そのフォークで、立浪(和義=中日)さんから三振を取ったんです。結局その日、フォークだけで5個くらい空振りが取れまして。その瞬間に、一軍用の決め球に変わりました。

パンチ その年に一軍に定着して、「これならやっていけるぞ」と手応えをつかんだわけだね。巨人時代に一番思い出に残っている試合といえば?

林 やはり、この初登板ですね。あとは07年、オールスターに出場させていただいたこと。あれはプロ野球選手として一番出たい舞台でしたし、ファン投票だったので、とてもありがたかったです。

パンチ どんなピッチングだった?

林 三者凡退に抑えることができました。

パンチ 過去を引きずったり自慢したりしちゃいけないけど、引退した今「俺、オールスターに出場したんだな」っていうのは、やはり自分の中では勲章だもんね。僕だってドラフト1位で指名してもらって、現役時代は「順位なんか関係ねえや」って思ってたけど、引退してみると「平成元年のドラフト1位」って、やっぱりありがたい勲章をいただいたなって思うもの。それから日本ハムへトレードを告げられたときの、正直な気持ちはどうでしたか。

林 やっぱり悔しかったです。日本ハムで頑張って、見返したい気持ちはあったんですが、3年で戦力外になりました。

パンチ それで横浜に行ったんだ。ジャイアンツ、日本ハム、横浜、それぞれどういうチームカラーだった?

林 ジャイアンツは絶対、全試合勝たなければいけないというチームで……。

パンチ 常に「俺たちはジャイアンツなんだ」というね。

林 日本ハムは1日、1日切り替えがはっきりしています。勝とうが負けようが、試合が終わってすぐ卓球をやるとか。それが気分の切り替え、というのが日本ハムのスタイル。DeNAはその中間。勝ちたいけれども、なかなか勝てなくてもがいていました。

通算100ホールドまで「あと1」で惜しくも引退


阿部慎之助(右)と並んで東京ドームのお立ち台に(2004年4月13日)


 千葉・船橋市内に1971年設立した、船橋中央自動車学校。林さんの父・敬さんが社長を務める。林さんは高校時代、毎日自動車学校の前を通って自転車通学していた。いつかはここを継ぐことを期待する父の想いと、野球を続けたい自身の想いに揺れながら。

 その間も含め、45年超にわたり敬さんがほぼ1人で、会社を支えてきた。社長でありながらパソコンの接続から給与計算、保険まで1人でこなすスーパー経営者。

「野球でいえば、GMと球団社長……すべてやっている感じでしょうか」と林さん。今はそんな父の背中を、林さんが追う。

パンチ 現役引退、そろそろかなと思ったのはいつですか。

林 横浜で最後、2年間一軍に上がらせてくれなかったので、自分でも「来るな」というのは覚悟していました。逆にいうと、二軍の試合で真っすぐが弾き返されて、小手先に走り出したときに「ちょっときついかな」と自分でも思いましたね。

パンチ それで、「ここまでかな」と?

林 横浜スタジアムでの最後の登板(15年7月21日、ヤクルト戦)で、敗戦処理で出たにもかかわらず、1アウトも取れずに7失点したんですよ。

パンチ 火消しじゃなくて、ガソリンまいてきちゃったんだね。

林 そこから一回も一軍に上がれなかったのは、悔いが残りますね。通算100ホールドまで、あと1だったんです。個人的にはそこまでは、と思っていましたが、一軍に上がれなくては仕方ないですね。

パンチ 奥さんやお子さんには「引退するよ」と言ったの?

林 ヨメ(フリーアナウンサーの亀井京子さん)には早めに言いましたね。お疲れ様、という感じでした。でも子どもたちは、ちょうど野球を分かり出したところだったので……。僕自身、なかなか言い出せませんでしたね。

パンチ 台湾とか韓国は考えなかった?

林 考えなかったです。小さいころから、いずれは自分がここで働くというのが頭の中にありましたし。

パンチ ここは林君のお父さんが創業されたんですか?

林 もともと先代の方がいて、共同経営者になったのがきっかけと聞いています。

パンチ 林君は一人っ子?

林 姉がいるんですが、やはり長男なので、ここを継ぐことはずっと父に言われていたんです。でも自分は野球をやりたい思いが強かったので、実際は反発していました。ただ、野球を辞めることになったとき、社長をやっている父がもう67、68歳になるのでやはり何かしら手助けができたらという思いはありまして。野球はきっぱり辞めようと思いました。

パンチ 出社初日って覚えてる?

林 野球を辞めた翌年の1月4日ですね。みんなの前で挨拶して、教習のこともまったく分からないので、教科書を引っ張り出して読んで……。

パンチ パソコンとか、そこから覚えたの?

林 いえ、まったくできなかったので、12月に学校に行ってパソコンを一通り勉強しました。もちろん、まだまだ分からないことはたくさんありますが。

パンチ 周りの人たちは「社長の息子さん、できるのかしら」という感じ? それともみんな助けてくれた?

林「できるのかな」という空気はあったと思います。

パンチ そこもプロ野球のときと同じで、なんとか追いつけ、追い越せで?

林 やはり、父親が社長ですし、スタート地点で取締役の形になっていますから。やるしかないです。

パンチ 2倍、3倍やっても、「二代目は……」って言われちゃう。そこは4倍、5倍やらないとね。

林 はい、そこははっきりしています。

教官、スタッフ皆から信頼してもらえるよう努力


パンチ 今はどういう仕事をしているの?

林 基本的には経営全般を見るので、この1年間はお金の流れをよく把握するようにしてきました。ただ、教習所ってところはやはり、非常に難しいですね。

パンチ 僕なんかが学生のころは、みんな免許がなきゃダメなんだっていう時代だった。でも、今は乗る人もだんだん少なくなっている。どんなサービスで、お客さんを呼び込もうと?

林 最近、やっと周りが見えるようになってきたんですが、船橋だけでも5カ所、教習所があるんです。だからよそに負けないように、施設改修がまず一つですね。それから僕は現場の声を大事にしていきたいと思っていますので、指導員やお客さんの声を、できるだけ上の役員たちに上げていくようにしています。

パンチ 差し支えない範囲で、現場の声を聞かせてもらえる?

林 お客さんからは、スマホの充電器が欲しいという声が挙がっていますね。今、待合室にも充電できるところがないんです。あと指導員は、家にいるより長い時間教習所にいるわけですから、休憩室などもう少しリラックスできるように、考えていかなければならないと思います。

パンチ 確かに充電器は欲しいね。僕もロケバスで充電できると、かなりありがたいもの。

林 うちの姉妹校が鎌ケ谷にありますので、そこともうまく連携を取っていきたいです。今はそういったことを、僕が上に橋渡しすることをメーンに考えています。毎月の役員会議の中で、若い人たちも働きやすいような環境を作れるよう、こういうふうに改善したい、と僕が話をする。まずはそこからです。

パンチ それが一番大切だよ。やはりいろんな球団を渡り歩いてきたから、監督によってチームが変わるとか、知ってるじゃない。

林 会社はいろいろ難しいですね。今まで、野球のときは自分が成績を残せばいい世界だったので。

パンチ 僕はパンチ企画を一人でやっているから、自分で仕事のアポを受けて、自分でガラガラ荷物引っ張って現場に行けばいいんだけど、大きな会社の社長になると、いろんな神経を使うよね。その中間は、また余計大変だと思う。野球の監督になる人が、よく言うじゃない。二軍監督、一塁、三塁コーチャー、それから監督と順にやらなきゃダメだって。林君も今の場所を見ておくと、何年かしてトップになったとき、きっとできるよ。

林 それはもう覚悟しなければいけないですね。やはり、信頼されなくてはいけないなということは、ここに入って一番に感じましたから。

パンチ 林君自身は、これからどんなことをやってみたいの?

林 今、ウチでは小さな託児所を併設しているんです。周りの教習所には託児所がないので、それでウチを選んでくださった方もいらっしゃるんですよ。その託児所をただ託児所じゃなく、教育の場として使うとか、地域の方々にも役立つ場所にできたらいいなと考えています。

パンチ それは最高だね。地域に密着した企業って、いいと思うよ。

林 まだまだ勉強してから取りかからなければいけませんが、自分としてはぜひそれを実現させて、町の活性化につなげたいと思っています。僕一人では無理でも、これだけ指導員もいるので、皆で一つのものを作り上げることができれば、一緒に感動を味わえるかなと思いますので。

パンチ ところで林君の人脈で、選手が教習に来ることはないの?

林 ここはすぐ隣が社会人のNTT東日本のグラウンドで、コーチに同級生がいるんです。それで今、何人か来てくれています。鎌ケ谷のほうは日本ハムの寮から近いので、寮長さんが気を使って、去年選手を紹介してくださいました。本当にありがたかったです。

パンチ 元野球選手ということを積極的に打ち出して、営業をかけるとか?

林(日本ハム)鎌ケ谷に菓子折りを持って、「よろしくお願いします」とは行っています。それで、ファイターズと何かコラボできれば、という話をいただきましたし、先日はファイターズの小冊子の取材をしていただいて、またありがたいなと思いました。

パンチ じゃあ、清宮幸太郎君とか吉田輝星君が来る可能性も……。

林 はい、ぜひ来てほしいですね! 野球選手はなかなか免許を取る時間もないと思うので、うまくスケジュールを組んで、効率よく卒業させてあげられるような環境を作れればいいですね。

パンチの取材後記


 僕は林君と話をさせてもらうのは、今回が初めて。テレビを通して、マウンドにいる彼の表情を見て、「こういう性格なのかな」と思ったとおりの、マイルドで優しい口調の、腰の低い好青年でしたね。3球団を渡り歩いて得た多くの経験を生かし、100人の教官とスタッフとうまくまとめて、これからも頑張ってほしいと思います。

 それにしても社長業って、やっぱり大変ですね。ましてや先代がしっかり作ったものを継ぐとなると……。僕は社長の息子じゃなくて良かったかも(笑)。林君、託児所の件も、ぜひチャレンジして、実現してください!

●林昌範(はやし・まさのり)
1983年9月19日生まれ、千葉県出身。市立船橋高からドラフト7位で2002年巨人に入団。03年にプロ初勝利を挙げて一軍定着、先発ローテーション入りした。05年からリリーフに転向し、54試合登板で2勝2敗18セーブ15ホールド。翌06年は62試合に登板する。09年に日本ハム、12年にDeNAへ移籍し、17年限りで現役引退。通算成績は実働13年、421試合22勝26敗22セーブ、防御率3.49。現在は株式会社船橋中央自動車学校取締役総務部長。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=山口高明
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