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プロ野球20世紀の男たち

黒沢俊夫&神田武夫「病に散った1リーグ時代の彗星」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

巨人の危機を救った黒沢



 なにやら最近、世相はキナ臭い。戦争が無数の悲劇を招くことは、政治や社会の難しい歴史を学ばずとも、戦争のような物騒な表現が用いられるプロ野球の歴史を振り返るだけでも分かる簡単なことだろう。栄光ばかりではなく、多くの事件も散りばめられたプロ野球の歴史だが、プロ野球そのものを中断に追い込んだのは戦争だけだ。

 百歩ゆずって、プロ野球は休止となっても、再開できたのだからいい。多くの名選手が一兵卒とされ、未来を奪われ、命までもが奪われた。戦争の悲劇は終戦とともに終わるわけではない。各地は焦土となり、人々は食糧や物資の不足に苦しみ続けた。もちろん、人々の努力で復興を遂げ、それによって現在があるのだが、その片隅で失われた命があったことは忘れてはならないだろう。

 豪傑であり、荒くれ者でもあり、アスリートでもあったプロ野球選手も例外ではない。飽食の時代とも言われた20世紀の終盤にも広島津田恒実やダイエーの藤井将雄らが病に散ったが、現在の医学でも根治が難しい病だった。ただ、1リーグ時代の彼らは、時代が違えば救われたかもしれない命だ。

 終戦から2年、47年のシーズン途中に急死した巨人の黒沢俊夫は、名古屋に創設された金鯱でプロ野球が始まった36年からプレーしていた外野手だった。翌37年の春にはリーグ3位の打率.295をマークしたが、オフに応召。40年に復帰し、金鯱は翼と合併して大洋、そして西鉄とチーム名を変えていったが(いずれも戦後の大洋、西鉄とは別のチーム)、42年に2度目の応召をはさみ、43年には全84試合に出場した。

 翌44年に巨人へ。このとき巨人は、それ以前にも、それ以降にもない、最大の危機にあった。43年の35選手のうち、16人が兵役に。開幕を前に中島治康ら残る主力も「もはや野球でもない」と退団、残ったのは6人のみで、当時は「他チームの選手は獲らない」という不文律のあった巨人が、それを破って獲得したのが黒沢らだった。

 そんな黒沢はリードオフマンとして打線を引っ張り、全試合に出場。首位打者は近畿日本(現在のソフトバンク)の岡村俊昭に譲ったが、リーグ2位の打率.348を残している。独特なクラウチングの打撃フォームから鋭い打球を広角に打ち分け、本盗は歴代2位の10個、44年5月20日の近畿日本戦(西宮)では1試合で2度の本盗を成功させたこともある。性格は温厚でマジメ。ロイド眼鏡を上げたり下げたりしながら打席に入るのがクセで、バットは変色した古いものを大事に使っていた。先輩風を吹かすこともなく、若手の信頼も厚かったという。

 そんな黒沢が「痔が悪いようだ」と入院したのが47年6月。腸チフスだった。その1週間後の6月23日、死去。

「ユニフォームを着せて葬ってくれ」

 それが遺言だった。

神田は2年で49勝、通算防御率1.36


南海・神田武夫


 開戦を挟む2年間、肺病と戦いながら投げ続けたのが、南海の神田武夫だった。京都商で快速球とキレのいいカーブを武器に3季連続で甲子園に出場。プロや社会人の争奪戦となったが、その後、肋膜炎が判明すると、潮が引くように手を引いた。例外が南海。「投手がダメなら野手でもいい」と言われ、入団を決めたという。

 1年目の41年は52試合の登板で25勝。チームが43勝だったから、神田は稼いだ勝ち星はチームの半分を超える。ただ、当時は食糧難で体を壊し、結核になる選手も少なくなかった時代。神田も病に蝕まれていった。そして翌42年、5月20日の巨人戦(西宮)。マウンドで吐血する。だが、その後も投げ続けて、最終的に61試合で27完投、24勝。防御率1.14はリーグ3位だった。オフに退団、翌44年7月27日に自宅で死去。41年オフに引退を勧められた神田が「だいぶ回復しました。やらせてください」と三谷監督に陳情して残留したのだが、戦後、三谷八郎監督は「私が神田を殺してしまったようなもの」と悔やんだという。

 黒沢の背番号4は、巨人のエースで戦死した沢村栄治の14とともにプロ野球で最初の永久欠番に。戦後、56年に神田の背番号19を継承したのは、プロ3年目の野村克也だった。

写真=BBM
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