昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 荒川堯、渡米のドタバタ
今回は『1970年3月23日号』。定価は80円。
前回と同じ号からの記事です。
1969年10月に発覚した八百長行為疑惑「黒い霧事件」は、事実があいまいのまま、首謀者とされた西鉄・
永易将之の追放処分(処分の理由は八百長ではなく、チームに連絡なく行方をくらましたこと)が出て、球界としては、これで済んだ(済ませた)つもりだった。
しかし、翌70年3月3日、再び事態が動き出す。きっかけは、まず
巨人の
藤田元司コーチの黒い交際問題。これで世間の球界への不信感が高まり、人気商売である(?)政治家たちが動いた。
ルートは2つある。
1つは川崎秀二議員を中心とする約200人の超党派「スポーツ振興国会議員懇談会」。この会が3日に総会を開き、「プロ野球の不祥事を国会で取り上げ、明朗化を推進する」旨を採択した。
もう1つは社会党の中谷鉄也議員だ。
2つのルートから球界のさまざまな汚点が暴かれていくが、事態の進展については、また。
大洋の1位指名を拒否し、アメリカに留学した
荒川堯だが、かなりのバタバタのようだ。
義父・
荒川博の知り合いで、日本にコーチとして来日経験があるマイヤーズ氏に「ぜひ来てくれ」と言われての渡米だったようだが、同氏が在籍しているエンゼルスのキャンプに合流するも、球団代表からクレームがあり、参加が拒否された。
これはマイヤーズが球団代表に荒川のことを知らせておらず、荒川の参加を知った代表が「MLBコミッショナーの許可もなく、日本選手をキャンプに参加させることはできない」と判断したからだ。
この後、ジャイアンツのキャピー原田が誘ってキャンプに合流したが、ここでは米コミッショナーから「荒川の参加を認めない」と通告されてしまった。
マッシー村上(南海から留学時、SFジャイアンツでメジャーデビュー。オフになって交渉問題で大揉めになった)の件もあり、日本人選手の扱いに神経質になっていたらしい。
2月27日、阪急のキャンプ地に中谷準志コーチが亡くなったという知らせが入った。キャンプイン直後に吐血。我慢強い人だったようで、
西本幸雄監督には「ちょっと2、3日休ませてほしい」とだけ言って、キャンプ地から離れていた。
西本監督は、
「かけがいのない男だったが……」
と声を詰まらせた。
では、また来週。
<次回に続く>
写真=BBM