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平成助っ人賛歌

暗黒期の阪神助っ人エース・キーオの忘れがたい孤軍奮闘ぶりとは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

味のあるハンサム・フェース


阪神・キーオ


「投手の殊勲打」がこれまで日本シリーズのドラマを生んできた。

 これは『週刊ベースボール』89年11月13日号に掲載されたDH制についての一文だ。巨人対近鉄の日本シリーズ特集において、第5戦の東京ドームで勝負を分けたのは先発投手の斎藤雅樹(巨人)が放った2安打で、対する阿波野秀幸(近鉄)は打つ気をあまり見せず、「なんとなく可哀想だったバットをとりあげられた9人目の打者」と書かれている。この平成元年から30年後の令和元年の日本シリーズでも、ソフトバンクに4連敗を喫した巨人の原監督がセDH制導入について私案を語り話題となったが、今も昔もDH制度は議論の対象だったわけだ。

 さて、89年は日本球界初の屋根付き球場を舞台とした“ドーム・シリーズ”という名称に時の流れを感じるが、その週べ同号で組まれた独占対談が「キーオ父子の比較日米野球論」だ。87年から阪神に所属していたマット・キーオと、元南海の内野手としてプレー経験のある父親のマーティ・キーオを迎え、マーティ・キーナートが聞き手役を務めている。当時メジャーとNPB、両方でプレー経験のある父子はキーオファミリーだけで、対談内容は日米文化論や日本生活の思い出話がほとんどだ。

「(68年に南海に入団した)オヤジについてきたのは11歳かな(※実際は13歳)。日本からその年帰るとき、9カ月で9インチ(約22センチ)も身長が伸びちゃってね」

「(日本生活で)学校はカナディアン・アカデミーに行ったけど勉強が難しいんでマイったよ。とくに化学なんかね。よく神戸クラブへ行って泳いだり、バスケットをしたりして遊んだね。今みたいにテレビやビデオがあるわけじゃないし、あまりやることがなかったなあ」

 この暇を持て余していた少年がやがてメジャー・リーガーとなり、アスレチックス時代の3年連続2ケタ勝利を含む通算58勝を挙げ、31歳のときに関西に戻ることを決意する。20代後半から複数のチームを渡り歩き成績は下降気味だったが、現役バリバリの大リーガーだけに虎党の期待も大きかった。キーオは南海時代の父親と同じく「背番号4」を選び、87年2月10日に阪神キャンプ地の安芸入り。ちなみに同年、地価が急激に高騰し銀座で1坪1億円を突破。大物アーティストが続々と来日し、マイケル・ジャクソンやマドンナが後楽園球場でライブツアーを開催する。家電では決して安くない自動製パン機(ホームベーカリー)が流行ったり、日本は空前の好景気に突入していた。

 85年に球団初の日本一に輝いた阪神は、86年はエース不在が響き3位に終わり、その足りないピースを埋める先発の柱として期待されたのが推定年俸6000万円のキーオだった。マスコミの注目度は高く、週べでも「ただ今トラキチの注目度No.1 マット・キーオに『クロコダイル・ダンディー』を見た!?」とタテジマの帽子からはみ出したブロンドの髪と口ヒゲが、俳優ポール・ホーガンばりのなかなか味のあるハンサム・フェースなんて紹介されている。プロ入り時は内野手だったこともありランニングではその足の速さが話題となり、打撃練習でも積極的にバットを振りアピール。ブルペン入りすれば2種類のストレート、カーブ、スライダー、シュート、フォークに“80年代の魔球”スプリット・フィンガード・ファストボールと多彩な球種が在阪マスコミを騒がす。

日本の価値観を受け入れて


阪神在籍4年間で通算45勝をマークした


 吉田義男監督からはローテの救世主を託され、キーオはなんと来日1年目でいきなり開幕投手に抜擢される。外国人投手としてはあのジーン・バッキー以来22年ぶりの大役も、ヤクルト打線相手に6回2/3を投げて7失点KO。これはアカンちゃうか……とファンを不安がらせるが、自身2戦目の大洋戦で10安打2失点の完投勝利。ジーナ夫人と1歳のシェーン君が横浜スタジアムの客席に駆けつけ張り切り、“七色の魔球投手”の触れ込みが、最速146キロの直球で押しまくる来日初勝利だった。

 しかし、頼みのランディ・バースが『週刊ポスト』87年7月17日号のインタビューで「いきなり、ズルズルと連敗し始めたんだ。オレたちみんな、まるで睡眠薬を飲まされたような感じだった。ノロノロと動きがにぶくなって、まるで打てない。オレたちゃ、ふらふら虎だ」なんつって意味不明なエクスキューズをかますくらいチームは絶不調。それでも、背番号4は気持ちを切らさずマウンドへ上がり続けた。借金42、勝率.331で首位巨人と37.5ゲーム差のぶっちぎりの最下位に沈んだ阪神投手陣において、11勝14敗、防御率3.80(6完投)と懸命に投げ、球団ただひとりの2ケタ勝利を記録。ちなみにこの年の6月にジャレコから発売された伝説のファミコンソフト『燃えろ!!プロ野球』でも阪神……じゃなくて「HT CLUB」のエースはキーオである(しかも数少ない投球フォーム完全再現選手)。

 2年目の88年も阪神は村山実監督が就任して春先はAクラス争いをするも、度重なるお家騒動でペナントどころではなく、首位中日と29.5ゲーム差をつけられ最下位独走。この年の猛虎打線はチーム打率.248、82本塁打と貧打にあえぎ、話題になるのは成績じゃなく新助っ人ルパート・ジョーンズがつけた日本球界初の「背番号00」という絶望的な状況でも、キーオは28試合で12勝12敗、防御率2.76(7完投)と意地を見せた。

 来日直後は「エースは1年で25回前後先発しなければならないし、また、そうすることがチームのため。だから110球を超えたら次の登板に支障がないよう、交代するのがベター」という考えだったのが、「オレはアメリカじゃなく、日本で野球をやっているんだ。だから、日本のスタイルですればいい。今ではミスター・ムラヤマにもなんら悪い感情は持っていない」と先発投手に完投を求めるボスの価値観を受け入れ、平成に元号が変わった翌89年も背番号4は獅子奮迅の活躍をしてみせる。

3年連続最下位を阻止


 3年目のキーオは開幕直後の4月に右ヒザを痛めて離脱するも、終わってみれば自己最多の201イニングを投げ、15勝9敗、防御率3.72。この勝ち星は斎藤雅樹(巨人)、西本聖(中日)の20勝、桑田真澄(巨人)の17勝に次ぐリーグ4位の数字だが、84勝の貯金40で独走優勝した藤田巨人や68勝でリーグ3位の星野中日とは違い、阪神は54勝75敗1分けの勝率.419でかろうじて最下位こそ免れたものの5位。新外国人のセシル・フィルダーが38本塁打と活躍するも、チーム防御率4.15はリーグワーストだった。そういうチーム状況においてキーオは投げまくり、8完投にリーグ最多の無四死球試合4という安定度を誇り、阪神の3年連続最下位を阻止したわけだ。

 しかし、翌90年は3月のオープン戦で慣れない地方球場のぬかるみに足をとられ、右足太腿屈筋を捻挫して出遅れ、7勝9敗、防御率5.00という成績に終わり、35歳右腕はその年限りで解雇されてしまう。結局、90年も阪神は首位巨人と36ゲーム差の最下位に沈んだが、キーオはチームの暗黒期真っ只中の4年間で107試合、45勝44敗、防御率3.73(22完投)という成績を残した。最後はあっけなく日本を去ることになったが、球団に対する貢献度ではもっと評価されてもいい投手ではないだろうか。

 確かに、優勝請負人でもなければ、タイトルを独占したわけでもない。しかし、昭和から平成への時代の変わり目、バースも掛布雅之もチームを去る異常事態において、どん底に低迷する阪神タイガースでエースとして孤軍奮闘していたのが、マット・キーオだったのである。その事実は忘れないでいたい。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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