一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 黒い霧はいつ晴れる
今回は『1970年6月22日号』。定価は80円。
1970年6月3日、16時30分、東京のホテルで会見が開かれ、
中日を任意引退していた
江藤慎一と
ロッテの
川畑和人のトレードが発表された。
江藤は
水原茂監督との確執から移籍を言い渡されたが、「中日で終わりたい」と拒否。中日も意地になって、自由契約ではなく、任意引退となっていた。
64、65年の首位打者で、69年も打率.280、25本塁打と大きく力が落ちたわけでもない。豪傑選手として人気も高く、「このまま消えるのはもったいない」とセの鈴木龍二会長が動き、開幕直前に
ヤクルトへの移籍がほぼ決まったが、急に中日側が「金銭ではダメ。交換で15勝級の選手がほしい」と言い出したことで、実現しなかった。
ロッテ・永田雅一オーナーは、江藤の移籍話が出たときから中日・小山オーナーの話を通したうえで、直接、江藤に連絡するなど、獲得に熱心に動いたが、このとき江藤は「中日の江藤で終わりたい」をかたくなに繰り返し、一度はあきらめたという。
しかし、その後、中日の状況が変わった。オートレースの八百長でエースの
小川健太郎が永久追放になってしまい、結果的には、「とにかく投手がほしい」となった。
中日側から動いたのかどうかは分からないが、ロッテは江藤の日鉄二瀬時代の恩師・濃人が監督でもあり、69年は3勝しかしていない川畑とのトレードが実現したらしい。
半年のブランクはあったが、江藤は、
「僕は筋肉質だから半年のブランクでも太らなかった。バットの素振りもやっていたし、ファームで練習させてもらえば」
と話していた。
球界から永久追放となった
池永正明の近況もあった。自宅で取材したようだが、
「いまは何もする気がしません。今後のことも考える気がしません」
と放心状態。ほぼ“引きこもり”だったようだ。
周囲では池永の復権運動やメジャーへの移籍話(ウワサ)もあったようだが、池永は関心を示さず、言葉にも力がない。唯一、コミッショナーの話になった際、
「なぜこんな処分になったか分からん。納得できない」
と語気を強めたという。
話が前後するが6月3日、オートレースの八百長で逮捕された中日・小川健太郎がコミッショナーから永久追放処分を受けた。
小川は
田中調の紹介で、今回の事件の中心である元暴力団員・藤縄と知り合い、ギャンブルでできた借金340万を出してもらったらしい。
また、同じく藤縄ルートで名前が挙がった東映の森安も、八百長は否定していたが、藤縄と
永易将之と博多で飲み歩いていたことは認めている。
何度も書くが、藤縄という人物が野球賭博の中心にいたわけではないはずだ。ある意味、小物の一人をつかまえただけで、これだけの騒ぎになった、という見方もある。
では、また月曜に。
そういえばだが、黒い霧事件を出してから、この連載のPVが異様に増えている。それはそれでありがたいのだが、大河ドラマのようにストーリーがあるわけではなく、劇的なクライマックスが待っているわけでもない。
もう少ししたら、ふつうに野球の話題のみになっていくはずだ。
<次回に続く>
写真=BBM