一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 私は悲劇の投手ではない
今回は『1971年5月3日号』。定価は90円。
引退した史上最高のサブマリン、南海・
杉浦忠の自伝『わが白球の軌跡…』が始まった。
入団から4年でなんと116勝。以後故障に苦しみ、通算187勝に終わったが、1959年の38勝4敗、防御率1.39、日本シリーズ4戦4勝(全4試合)の快投は伝説となっている。
冒頭は、3月25日、対巨人の引退試合(大阪球場)。立大時代の盟友・
長嶋茂雄が慣例とは違い、フルスイングしヒットを打った話についての記述がある。
今回は、その引用をしてみる。
「今日投げるから一生懸命で打ってくれ」といったら、長嶋が「わかった。一生懸命向かっていくよ」と約束してくれた。
それまでは三振しようとか、長嶋自身は迷っていたらしく「これで気持ちが決まった。ホームランを打つつもりでいくよ」と大きくうなずいていた。
6回の長嶋との対決は、こうして実現したものだった。
マウンドへ上がると、不思議とピリッとして引退試合というような観念は消えてしまい、長嶋を打ち取ってやろうという気持ちになった。長いマウンド生活の習性かもしれない。
しかし長いことピッチングをやっていないので、むろん調子は悪かった。
しかし第一球は、投げた私自身がびっくりするような、シーズン中でも数多くは投げられなかったほどいい球だった。
外角へずばりと決まった。
長嶋も「おや、なかなかいいボールを投げるじゃないか」というような顔をした。作った顔ではなかったと思う。
二球目、やや真ん中に入った球を、長嶋はセンター前に打ち返した。このヒットは、長嶋が述べてくれた送辞とともに、私への最高のはなむけだった。
ホームランを打つつもりで向かってきてくれた長嶋の気持ちがうれしかった。
(中略。ここで立大時代、南海新人時代の長嶋との逸話が書かれている。そして、話が戻る)
「昔の仲間の長嶋が現役の第一線でやっているのに、君はユニホームを脱ぐのは寂しくないか」
と、僕に問うた人がいる。
「そんなこと全然感じませんよ」
と僕は答えた。
私の引退に、何か悲劇的な意味があるような感じ方をしている人もあるようだ。だが私は、私の野球生活は恵まれていた。思う存分のことがやれたと思っている。
ただ最後に、南海ナインが二列に並んでくれた中を、一人一人の選手と握手しながら進んだときには「これでお別れだ」と感傷的な気持ちになったことは確かだった。
25日に着たユニホームは新しい、まっさらのユニホームだった。
できることなら、着古した、グラウンドの土と、私の汗のしみ込んだ、21の背番号のついた私のユニホームをいただきたい。
そのことを球団にお願いしている。
では、またあした。