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プロ野球20世紀・不屈の物語

三冠王に輝いて批判された落合博満の逆襲/プロ野球20世紀・不屈の物語【1983〜85年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

目標の打率4割に届かず……



 他者を批判するのは簡単だ。どんな人間にも、あるいは成功にも、少なからずスキのようなものがあり、それを見つけて攻撃の矛先を向ければいい。そこに心は不要だ。よって、批判の言葉は量産され、それがさらなる批判を呼ぶ。実は誰かを攻撃すること自体が目的であり、それをカモフラージュするための大義名分として批判らしき言葉を並べている場合も多い。回りくどいだけの悪口のようなものだ。批判は、批判されている他者が成長するところへ到達しなければ、どんな言葉を弄したところで、単なる悪口に過ぎないのかもしれない。

 同時に、「君の成長のために言っている」という批判も、なかなかに鬱陶しい。こういう状況に追い込まれたら、やり過ごすか、正面から向き合うかの選択になる。ロッテの落合博満が1982年に史上最年少で三冠王に輝きながら、打率.325、32本塁打、99打点という数字に対して批判されたことについては、すでに紹介している。その批判のほとんどが「あんな低い数字では意味がない」というもの。これに対して落合は、前人未到のシーズン打率4割を翌83年シーズンの目標に掲げた。数字を低いと批判されたのだから数字で見返す。落合は正面から批判に向き合った。

 落合に寄せられた批判、その真意は不明だ。「こんな数字にとどまる打者ではない」という叱咤だったのか、あるいは若き三冠王への嫉妬のようなものが根底にあって、数字の低さというスキに対しての攻撃だったのか。その両者がいたかもしれない。いずれにしても、迎えた83年の落合は、後者にとっては思うツボといえるスタートを切る。オープン戦では打率.388と打ちまくったが、いざペナントレースが開幕すると、低迷。6月11日には打率.269まで落ち込んだ。

 それでも夏場からは調子を上げる。この83年は、パ・リーグが11年ぶりに1シーズン制に戻り、閉幕の時点で勝率1、2位のチームがゲーム差5以内であれば5試合のプレーオフを行うという変則的なシーズンだったが、そんな変則プレーオフなど関係ないほどの独走を見せたのが西武だった。その西武では助っ人でスイッチヒッターのスティーブが抜群の安定感で連覇に貢献。最下位のロッテで奮闘した落合は、最後はスティーブの結果を待つことになったものの、打率.332で3年連続の首位打者に輝いた。ただ、目標の4割には遠く及ばず。25本塁打、75打点と、他の2部門も数字を下げる結果に終わる。その翌84年も、苦しい戦いが続いた。

あらためて三冠王を目標に


 84年のパ・リーグで圧倒的な強さを見せたのが阪急。打線の中心は、助っ人のブーマーだった。身長2メートルの巨漢で、別格のパワーを誇りながらも、テクニックも抜群。打率.355、37本塁打、130打点で外国人選手としては史上初の三冠王に。ロッテは阪急と8.5ゲーム差の2位と善戦したが、落合は無冠だった。「ものすごく不愉快な気分になった」と、落合。ブーマーの三冠王は、どんな批判の言葉よりも起爆剤となったのだろう。続く85年は「3つ狙う」、つまり2度目の三冠王をターゲットに開幕を迎えた。

 課題は本塁打だった。ファウルを減らそうと、レフト方向はスライス、ライト方向はフックの回転を打球に加える技術を磨く。夫人に「太った人のほうが飛ぶんじゃないの」と言われれば、体重も増やした。最終的に打率.367、52本塁打、146打点。82年の自身も84年のブーマーも上回る圧倒的な数字で有言実行、三冠王に輝いた。ただ、これが自己最高の数字となる。まだプロ7年目。以降、それでよりも長い時間を、選手として過ごすことになる。頂点を経験したことで、さらに苦しんでいるようにも見えた。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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