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三冠王とトリプルスリーにわずかに足りなかった選手とは

 

2002年の巨人松井秀喜


 首位打者、最多本塁打、最多打点の3タイトルを受賞する「三冠王」や、打率3割、30本塁打、30盗塁を達成する「トリプルスリー」は、NPB史に名を残す選手でも達成するのが難しい記録だ。過去には、三冠王やトリプルスリーまであと一歩届かなかったケースも少なくない。今回は、そうした「打撃三冠とトリプルスリーにわずかに足りなかった選手」を紹介する。

往年の名選手やスターも三冠は達成できず


 首位打者、最多本塁打、最多打点のうち2つのタイトルを獲得した「二冠王」は、2リーグ制となった1950年以降ちょうど50人いる。この中で特に「あとわずかだった」という選手を紹介しよう。

 NPB創設1年目、1950年のセ・リーグは、松竹の小鶴誠が51本塁打、161打点と素晴らしい成績を残した。後は打率を残すのみだったが、ここで立ちはだかったのが大阪の藤村富美男。小鶴の.355をわずか.007(7厘)上回る成績を残し、小鶴の三冠を阻止した。藤村は、前年に本塁打と打点の二冠を獲得するも、小鶴に打率で上回られて三冠を逃しており、見事なリベンジとなった。

 1950年はパ・リーグでも熾烈な首位打者争いが繰り広げられた結果、毎日の別当薫が惜しくも三冠を逃している。この年の別当は43本塁打、105打点でリーグトップに立ち、打率でも東急の大下弘と激しい首位打者争いを繰り広げた。しかし、別当は大下の残した打率.339にわずか.004(4厘)及ばず。パ初の三冠王になることができなかったのだ。

1955年の西鉄・中西太


 NPB黎明期に西鉄の中心選手だった中西太も「あとわずか」で三冠を逃した選手だ。1954年は打率が.004(4厘)届かずに三冠を逃し、1955年は打率と本塁打の二冠に輝くも1打点差で三冠ならず。1956年は本塁打と打点でトップに立つが、チームメートの豊田泰光の打率.3251にわずか.0005(5毛)差で2位(中西は.3246)。1958年は大毎の葛城隆雄に1打点及ばずと、なんと4度もビッグチャンスを逃した。

 1964年の王貞治も三冠をあと一歩のところで逃している。この年の王は当時のシーズン最高記録となる55本塁打を放ち、119打点とリーグトップの記録を残した。敬遠が多かったこともあって打率は.320と高いアベレージを維持し、三冠王の期待もされたが、中日江藤慎一にわずか.003(3厘)及ばなかった。二度の三冠王に輝いている王だが、二冠は通算12度と三冠王を逃したことも多かったのだ。

イチローや松井も三冠に手が届きそうだった



 平成以降では、2002年の松井秀喜が挙げられる。この年「三冠」の獲得を目標に掲げていた松井は、その公言どおりの活躍を見せ、打率.334、50本塁打、107打点と好成績を残した。しかし、本塁打と打点のタイトルを獲得したものの、打率は中日の福留孝介に.009(9厘)届かず。夢の三冠とはなからなかった。

 翌2003年は、ヤクルトアレックス・ラミレスが40本塁打、124打点と2部門でトップに立った。打率も.333と首位打者に立ってもおかしくない成績だったが、この年絶好調だった阪神今岡誠がラミレスを上回る.340の成績を残し、三冠を阻止している。

 ヒットを量産するアベレージヒッターという印象の強いイチローだが、実は1995年シーズンは三冠まであと一歩のところまで迫っていた。この年のイチローは見事なバットコントロールで打率.342とリーグ首位を走り、本塁打と打点でもトップ争いを繰り広げた。最終的に打率と打点のタイトルを獲得するが、本塁打は25本どまり。トップの小久保裕紀の28本に3本届かず。三冠とはならなかった。

 2015年のヤクルト・山田哲人は、38本で最多本塁打のタイトルを獲得。首位打者と最多打点は逃したが、実はかなり惜しい成績を残していた。この年の山田は打率.329だったが、首位の川端慎吾の.336とはわずか.007差。打点も100打点で、トップの畠山和洋が残した105打点と5打点しか差がなかった。チームメート3人で打撃タイトルを分け合う形となったが、川端と畠山次第で山田がトリプルスリーだけでなく、三冠王に輝く可能性もあった。

トリプルスリーをあと一歩のところで逃した選手は?


1958年の巨人・長嶋茂雄


 トリプルスリー達成者は過去10人いるが、あとわずかで逃した選手も多い。有名なのは1958年の長嶋茂雄だろう。この年の長嶋は、打率.305、29本塁打、37盗塁とルーキーながら驚異の活躍を見せたが、トリプルスリーには本塁打が1本足りず。実は9月19日の広島戦(後楽園)でベースを踏み忘れ、ホームランを取り消されるという珍事を起こしており、この踏み忘れがなければ史上初となる「新人でのトリプルスリー」だったのだ。

 NPB創設1年目の1950年は、3人の偉大なレジェンドがトリプルスリーを逃している。まずは巨人川上哲治だ。この年打率.313、34盗塁を記録した川上だが、本塁打は29本と1本届かなかった。また、チームメートの青田昇は、打率.332、33本塁打、29盗塁と、トリプルスリーまでわずか盗塁一つだった。もう一人は松竹の小鶴。51本塁打、164打点、28盗塁でトリプルスリーに届かなかった。小鶴は三冠だけでなくトリプルスリーも惜しいところで逃しているのだ。

 ほかにもある。1995年のイチローは、上記のとおり25本塁打とあと5本足りず。2000年の小笠原道大は打率と本塁打はクリアしたものの、盗塁数が6足りなかった。2003年の井口資仁は、打率と盗塁数は3割、30盗塁を上回ったものの、27本塁打と残り3本のところでシーズンを終えている。3つの要素のうち2つを満たすケースは多いが、残り一つが難しいのだ。

 このように、打撃三冠やトリプルスリーは、多くのレジェンドや偉大な実績を残したスターでさえも達成できていない。今シーズンは新型コロナウイルスの影響で開幕が先延ばしになっている状況だが、今シーズンは達成者が出るのか、選手たちの活躍を期待したい。

文=中田ボンベ@dcp 写真=BBM
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