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週べ60周年記念

大リーグの夢破れた鈴木弘/週べ回顧

 

 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

村山実、怒りの退場劇


表紙は巨人長嶋茂雄



 今回は『1971年5月10日号』。定価は100円。
 前回と同じ号からもう1回いく。

 1970年春、キャピー原田に誘われ、サンフランシスコ・ジャイアンツと契約した鈴木弘。大東文化大卒で2メートル近い長身野手だった。
 しかし71年は契約を結べず、4月14日、帰国。

 英語がほとんど話せなかった鈴木にとってアメリカ生活はかなりつらかったようだ。
「食べ物には苦労しませんでしたが、言葉には苦労しました。だから野球をやっているときが一番よかったです。野球を離れるともう地獄のような孤独な生活にかえらなくてはならなかったですからね」
 後半、翌季の契約が絶望となり、モーテル暮らしになったころは、さらにつらかったという。

 野球の関しては、当初はよかった。1Aに参加し、それなりに自信もつかんだ。アメリカの投手が速いとは思わなかったし、試合でも2割5分程度だったが、打った。
 しかし、1カ月ほどして、さらに下部のリーグに落とされてからは、ほとんど首脳陣に相手にされることもなく、日々の宿も自分で手配するしかなかったという。

 4月12日にクビを宣告され、すぐ帰国。アメリカ野球に未練はない、という。

 ただ、遊んでいるわけにはいかない。大学時代の監督に紹介され、ロッテのテストを受けることになり、現在はそのための練習中だ。
「ロッテがダメだったらどうなるのかな。サラリーマンになるんだろうが、野球から離れた生活なんて考えたことないからね」
 鈴木はまるで他人事のように淡々と話していた。

 4月22日、甲子園で行われたヤクルト戦で村山実兼任監督が退場処分となった。
 村山は前年から兼任監督となったが、1年目はチームが2位、自身も防御率0.98と、優勝こそ逃したが、ほぼ理想どおりのシーズンとなった。
 しかしこの年は、まず開幕直前に本屋敷コーチとの確執が明らかになり、急きょ謹慎さらに退団となり、「問題があるならあるで、なぜオフの間にやっておかなかったのか」と管理能力が批判された。
 さらにオープン戦絶好調だった田淵幸一が腎炎で離脱。自身もまたストレスから睡眠不足となり、結局、「胆のう炎」となってしまった。
 4月19日、4連敗をした試合後は眉に深いタテじわを寄せ、怒りの表情のまま、報道陣の質問にもほとんど答えず、バスまで走るように向かったという。
 22日、村山監督が何かあれば爆発しそうな状態にあったことは間違いない。

 4回裏だった。ヤクルトの一塁手ロバーツが一塁ライナーを落球したが、すぐ一走の遠井吾郎にタッチ、そのまま一塁を踏んで併殺になったシーンだ。
 村山は「ロバーツは先に一塁を踏んで、戻った遠井にタッチした。遠井はすでに一塁ベース上にいた」と抗議。実際、大谷審判は最初、打者走者だけにアウトを宣告し、ロバーツのアピールで遠井もアウトにしていた。
 
 ただ、これは抗議というより、ケンカの前の口上のようなものだった。村山は、
「あれがどうしてアウトや。ロバーツは先にベースにタッチしたやないか」
 とだけ言い、返事も待たず、大谷審判に向かい両手を突き出した。
 それはさほど勢いがあるものではなかったが、村山の剣幕にびびってしまった審判は、その手が当たる前に「退場してください」と宣告。ここで村山は「まだ手も出してないのになんでや」となって本当に突き飛ばす、いや突き倒してしまった。
 罰金は5万円だった。

 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM
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