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プロ野球20世紀・不屈の物語

通算303勝を残したスタルヒンの戦前、戦中、そして戦後/プロ野球20世紀・不屈の物語【1936〜55年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

藤本監督と出会うまで


大映時代のスタルヒン


 人類にとって共通の敵と戦っているような現状であっても、いわゆるヘイトスピーチの勢いは衰えていないようだ。見た目が違う、生まれた場所が違う、国籍が違う。それだけを理由に他者を迫害するわけだが、こうした言動が弱者や少数者を苦しめるだけだということはプロ野球の歴史を振り返るだけでも分かる。

 外国人選手が日本のプロ野球でプレーするのは、近年は当たり前の光景になっている。異国で生活したことがある人なら想像できるだろう。彼らはグラウンドに入る前、日常生活においても少なからず格闘を余儀なくされているはずだ。外国人選手がプロ野球に定着し始めたのは2リーグ制となってから。1リーグ時代にも外国人選手はいたが、ハワイ出身の日系人選手が多かった。そんな時代に、1人の選手がいた。外国人選手と表現するのは正確ではない。それはもちろん、彼がプロ野球タイ記録となるシーズン42勝を含む通算303勝を残した名選手だからではない。生まれたのは帝政ロシア時代の、アジアとヨーロッパの境界とされるウラル山脈の南に位置する町だった。

 ロシア革命で日本へ亡命。北海道の旭川で育った。スタルヒンという男は、ロシアに生まれたロシア人であり、日本に育った日本人でもあり、そして、そのどちらでもなかった。本格的に野球を始めたのは旧制の旭川中からだったというが、日本も戦争に向かって沈んでいった時代にあって、野球をする以前にすさまじい暗闘があったことは想像できよう。

 プロ野球が始まった1936年から巨人でプレーしているが、その前身の大日本東京野球倶楽部で34年の日米野球にも参加している。そこに至る経緯の詳細は不明だ。スタルヒンを擁する旭川中は「来年こそ甲子園」と盛り上がっていたとき、読売新聞の肝煎りで開催されることになっていた日米野球の全日本チームに誘われる。旭川中の関係者は猛反発した。そして、困窮の中にあったスタルヒンは忽然と姿を消す。次にスタルヒンが姿を見せたのは11月29日、日米野球のマウンドだった。読売新聞が提示した契約金にひかれたとも、父親の殺人事件をネタにして“強奪”されたともいわれる。いずれにしても、そのまま巨人でプレー。エースは伝説として語り継がれる沢村栄治だ。その一方で、明らかに周囲と見た目が異なる繊細な若者は、心ない言葉に幾度となく傷つけられる。そんなスタルヒンを救ったのは藤本定義監督の言葉だった。

名前を変えてでも


「沢村を超える投手になりたいと思わんか。だったら、そんなこと気にするな」

 スタルヒンは藤本監督を父のように慕うようになる。優しい言葉を掛ける一方で、藤本監督はスタルヒンにも容赦なく猛練習を課した。当初は細身で制球も良くなかったが、しだいに下半身とともに制球も安定、成人男性の平均身長が160センチほどだった時代にあって、191センチの高身長からの速球は「2階から投げ下ろす」と表現される。そして37年の春から5シーズン連続で最多勝、39年には42勝を挙げた。

 だが、戦局は悪化の一途。40年9月には球団の勧めで「須田博」という日本名でプレーを続けた。これにも戦後、迎合主義などと批判する声があったが、もちろん主義や主張といった次元の話ではない。常に憲兵隊から見張られて、一般の人々も敵意のある視線を浴びせられた。そんな中でも、野球を続けることが最優先だったのだ。実際、44年いっぱいでプロ野球が休止に追い込まれると、軽井沢の外国人収容キャンプに軟禁される。そのまま終戦を迎えた。

 戦後、プロ野球が再開に向けて動き始めてからは、巨人へ復帰せず、進駐軍の仕事を手伝った。ここで奇跡が起きる。偶然、恩師の藤本と出会ったことが、スタルヒンが野球を再開する道を開いた。その後は藤本監督とともにチームを転々とする。49年には大映で27勝を挙げて6度目の最多勝。54年には藤本と離れて高橋へ移籍して、55年までプレーを続けている。通算303勝は当時のプロ野球記録だった。だが、約1年後、57年1月に交通事故死。まだ40歳の若さだった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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