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夏の甲子園回顧

球史に残るミラクル“奇跡のバックホーム”/96年決勝・松山商対熊本工【夏の甲子園回顧】

 

一瞬のうちに頭をよぎった“声”


1996年夏、松山商高と熊本工高との甲子園決勝。3対3の10回一死満塁の場面で矢野勝嗣は右翼のポジションに入り、直後の右飛をダイレクト返球で、サヨナラの生還を封じた(三走・星子崇、捕手・石丸裕次郎、球審・田中美一)


 あの夏から24年が経過した。甲子園の季節になるたび、スーパープレーの映像が流れる。「奇跡のバックホーム」。サヨナラのピンチで監督から呼ばれた男が、まさに球史に残るミラクルを起こした。

 1996年8月21日、阪神甲子園球場。スコアは3対3。熊本工高は10回裏一死満塁と、初の全国制覇のチャンスを迎えた。この回の攻撃を振り返ると、先頭打者の星子崇が二塁打。ここで松山商高(愛媛)・澤田勝彦監督は右翼を守っていた背番号1の3年生・渡部真一郎にスイッチし、先発の2年生・新田浩貴は右翼へ。犠打で一死三塁。松山商高は満塁策を選択し、2人を敬遠気味の四球で歩かせた。ここで新田に代わり、背番号9・矢野勝嗣が右翼のポジションに入った。

 矢野はプレッシャーに弱かったという。松山商高グラウンドのシートノックでは、全員ノーミスでなければ終わらないルールとなっていた。だが、最後の最後、矢野は決められないことが多かった。同夏の甲子園は、渡部と新田による継投が必勝パターンとなっていたため、矢野の出番は準決勝までに2試合。絶体絶命のピンチで出場した状況を、矢野は「とにかく、うれしかった」と語っているが、本心はやや違っていた。

「商業(松山商)の攻撃中は一塁コーチャーで、試合前ノック以降は、キャッチボールをしていませんでした。いきなり、澤田監督から『矢野、行け!』と。慌ててグラブを探して、飛び出していった感じです(苦笑)」

 このバタバタぶりが、功を奏した。

「一死三塁となった時点で入る選択肢もあったはず。8球のボール(2四球)があったら、余計なことを考えて、重圧になっていたかもしれない。事前に『キャッチボールをやっておけ!』と言われても、緊張が増していたかも……。いま、考えると怖いですが、あの澤田監督のひらめきと『間』が良かったと思います」

 守備交代から10秒もたたない初球、熊本工高・本多大介は大きな孤を描く飛球を打ち上げた。しかし、プロ野球でも「左打者泣かせ」と言われる浜風に押し戻され、定位置よりもやや後ろの矢野は落下地点に入る。

「角度、弾道……。インパクトの瞬間は本塁打だと思いました。どうしたら、アウトにできるか? カットマン、ワンバウンドでも間に合わない。ダイレクトしかなかった」

 練習を通じ、外野手の本塁返球は内野手への中継か、ワンバウンドが基本。ただし、澤田監督から「イチかバチかの場面では(ダイレクトも)必要だ」と指導を受けており、その“声”が一瞬のうちに頭をよぎった。

 俊足の三塁走者・星子も絶好のタッチアップでスタートを切ったが、矢野の好返球が捕手・石丸裕次郎のミットに吸い込まれた。ベストポジションにいた田中美一球審は「アウト! アウト!」のコール。ピンチを脱した松山商高は11回表、「八番・右翼」の矢野の安打を足がかりに、3点を勝ち越し。勢いのまま、27年ぶりの全国制覇を決めている。

そして、一生の宝物に


「奇跡のバックホーム」。20年が経過しても、語り継がれる名場面だ。毎年、夏が来るたびに、矢野への取材は絶えなかった。

「良い思いをさせていただき、いろいろな方にも声をかけられる。恥じないように行動してきたつもりです」。今では笑顔で語ることができるが、20代のころは“必ず付きまとうプレー”に対し、重く感じたこともあった。

 2013年、知人を介して、熊本工高の三塁走者・星子との再会が、分岐点となった。「自分の苦労に比べれば、星子のほうがつらい思いをしてきた」。2人は現実を受け止め、このプレーを後世に伝える覚悟を固めた。

 星子は2014年5月、熊本市内でスポーツバー『たっちあっぷ』を開店。オープン時に矢野は「何かできることはないか」と、甲子園出場時に着用していたユニフォームをプレゼント。これを機に2人の交流が始まり、16年10月22日にはOB戦(熊本地震復興支援イベント)を開催した。甲子園で結ばれた絆。「奇跡のバックホーム」は両校にとって、一生の宝物となっている。

文=岡本朋祐 写真=BBM
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