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平成助っ人賛歌

メッツで新庄ともプレーした広島のムードメーカー、「山田ティモロウ」ことペレス/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

チェコに続く才能と期待


カープアカデミーから広島入りしたペレス


『バイオハザード』、『クラッシュ・バンディクー』、『パラッパラッパー』。

 1996年(平成8年)、これらの話題作を連発したプレイステーションがゲーム業界の天下を獲ろうとしていた。本体の販売台数は96年末に全世界で1000万台、97年1月には日本で500万台を突破と社会的なブームに。野球ゲームもMLBを舞台にした『ボトムオフザナインス メジャーリーグヒーローズ』や『ハードボール5』、フランク・トーマス監修の『ビッグハートベースボール』といった洋ゲーが日本でも立て続けに発売された。前年の野茂英雄の渡米、そしてプレステの普及により、日本の野球ファンにとって大リーグが身近になり、野球界も新しい時代が始まろうとしていた。

 そんな中、イチローよりも先に、NPB経由でメジャー・リーグを目指した若手野手もいた。広島がドミニカ共和国に設立したカープアカデミーで猛練習を積み、96年に来日したアルフォンソ・ソリアーノである。97年には一軍デビューを飾り2安打を放つも、契約がこじれ98年に渡米。2002年にはヤンキースで打率.300、39本塁打、102打点、41盗塁という凄まじい成績を残し、スター選手の仲間入りを果たした。広島時代の同僚・黒田博樹とはのちにメジャーでもチームメートになっている。そして、そのソリアーノよりひと足早くカープアカデミーからやってきたのが、ティモニエル・ペレスである。

 日本ハムバーナード・ブリトーと同郷のホアン・バロン出身。左投左打、身長170センチと小柄な体型ながらも、前年からの練習生を経た96年春季キャンプで、18歳(のちに2歳サバを読んでいたことが発覚し実際は20歳)のペレスは、「足が速くて肩もいい。打撃も左右に打ち分けることができる」とポテンシャルの高さが話題となる。わずか年俸400万円ながらも、オープン戦初戦でいきなり3安打の猛打賞。なにせアカデミーに入校した1年目のサマーリーグで、3割5分のハイアベレージで打率ベストテン2位の成績を残した逸材だ。前年15勝を挙げたアカデミー出身のロビンソン・チェコに続く才能と期待されていた。

やんちゃな少年のような雰囲気


奇抜なヘアスタイルをしていた


 性格も当時はシャイなソリアーノとは対照的に、背番号72のペレスは明るく陽気でやんちゃな少年のような雰囲気だった。当時の『週刊ベースボール』にも度々面白キャラとして登場。沖縄キャンプで、キノコのように刈り込んだ奇抜なヘアスタイルに挑戦し、帽子を取った野村謙二郎が「なんだ、この頭。チョコボールか、お前!」なんつって絶句。しばらく、“チョコボール”というニックネームで呼ばれた(諸説あるがチョコボール向井とは関係ない)。 

 当時のカープ外野陣は前田智徳金本知憲緒方孝市と12球団屈指の顔ぶれがそろっていたが、バリー・ボンズにあこがれるペレスは、フライを捕球する際にグラブを素早く動かして胸の前で十字を切るモノマネも得意技。三村敏之監督は“カリブの小ボンズ”と名付け、「ああいう選手が活躍したら本当に盛り上がるね」と、ベンチから覚えたての日本語で野次を飛ばすムードメーカーぶりを評価する。

カラオケでは郷ひろみを熱唱


週ベで行った特写。路面電車の前でポーズを決める


 そんなラッキーボーイは開幕の中日戦で延長13回裏にサヨナラ打を放ち、週ベの人気コーナー「ニューウェーブ21世紀型ヒーローを先取り 本音直撃Q&A」にも登場した。「ドミニカの子どもたちは野球選手か歌手になることが、成功への近道と信じているんだ」と、マイケル・ジョーダンの23番レプリカユニフォームを着て路面電車の前でポーズを決めるペレス。

「(日本語は)まずあいさつの言葉と、おわびの言葉が大事だと思って、それを覚えたんだ。でも、最初に覚えたのは「かわいい」かな(笑)」

「(奇抜な髪型について)これは、(同僚の)チェコに散髪してもらったんだ。もちろん気に入ってるよ。ドミニカの若者は髪型に決まったものはなくて、どうだっていいというか、自分が気に入ればいいって感じなんだ。自己アピールと考えているところもあるね」

「(休日は)寝ていることが多いよ。あと、散歩。音楽を聴くこともあるけど、好きなのはメレンゲ(ドミニカ特有のダンス音楽)やサルサ。カラオケ? 時々行くけどスペイン語の歌では『ラ・バンバ』、日本の歌では郷ひろみの『逢いたくてしかたない』だね」 

 カラオケで郷ひろみを熱唱する陽気な助っ人は、雨天中断時の野村謙二郎とのベンチでのじゃれ合い(今ならパワハラで問題になりそうなレベル)が珍プレー番組で話題になるなど人気者となり、プロフィル上は高卒ルーキーと同い年の1年目は31試合で打率.278、1本塁打、7打点とまずまずのスタートを切る。

 背番号50に代わった97年は86試合、98年は2年連続打点王のルイス・ロペスが去った後の一塁守備にも挑戦し、オープン戦で打率.367、13打点とアピール。鋭くコンパクトなスイングをするために20グラム軽くした890グラムのバットで結果を残す。一塁兼外野手で起用され、98試合で打率.296、5本塁打、35打点と着実に成長してみせた(ただし俊足にもかかわらず、走塁技術は未熟でわずか4盗塁という課題も)。

「ドミニカ発、日本経由、アメリカ行き」を実現


メジャーではメッツ(写真)、ホワイトソックス、カージナルス、タイガースの4球団でプレーした


 報道陣からカメラを借り撮影した写真をドミニカに送り、活躍した日には必ず故郷に国際電話をかける家族思いの一面も。左耳にはボンズばりにダイヤのピアスがキラリと光り、このころの愛称は“ティモ”に落ち着いたが、日本名の「山田ティモロウ」というなんだかよく分からないニックネームもあった。しかし、子どものころから目指していた場所は、あくまでメジャー・リーグ。98年にポスティングシステムでのメジャー移籍を希望するも入札はなく、99年限りで4年間過ごしたカープを退団し渡米。ソリアーノや仲が良かったアレハンドロ・ケサダと同じく、「ドミニカ発、日本経由、アメリカ行き」を実現させた。

 2001年、新庄剛志がニューヨーク・メッツへ入団すると、日本のテレビでもよくメッツ戦が放送されたが、新庄の隣で外野を守っていたのは、山田ティモロウこと、メジャー・リーガーになったペレスだった。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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