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プロ野球20世紀・不屈の物語

「死中」を生き抜いた“8時半の男”巨人・宮田征典/プロ野球20世紀・不屈の物語【1962〜65年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

心臓疾患という運命



「死中に活を求める」と言われるが、多くの場合、「死中」というのは困難な場面に対しての比喩だろう。あながち比喩とも言い切れないような昨今だが、さまざまな難局を「必死に」そして「死に物狂いで」乗り越えるべく、多くの人が奮闘していることと思う。くれぐれも、これが比喩のまま、活路を見出すことを願うばかりだ。

 その一方で、かつてのプロ野球には、これが比喩ではなく、文字どおり死と隣り合わせで投げ続けた男がいた。巨人のV9という空前絶後の黄金時代がスタートした1965年に、その起爆剤となった宮田征典だ。宮田は心臓に爆弾を抱えていた。起爆剤も爆弾も、もちろん比喩だ。だが、その心臓の疾患は、宮田にとって大きなハンディキャップとなる“爆弾”である一方で、大きな活路につながる“起爆剤”でもあったのだ。

 少年時代から死と隣り合わせだった。前橋高2年生の秋には、白血病と診断されている。現在でも根治が簡単ではないが、当時は不治の病であり、宮田も大きなショックを受けたという。これは誤診で、寄生虫による症状だと分かったが、その後は虫を殺す治療のために何度も絶食を繰り返して、体重が27キロも落ちたことがあった。このころから、神経性の心臓強迫症が出るようになる。それでも3年生の夏には復帰して、日大では2度のMVP。62年に巨人へ入団した。

 鉄工所を経営していた父は日立製作所に入れて後継者としての修行をさせるつもりだったが、「オヤジに黙って日立を断り、ハンコを持ち出して巨人と契約しました。怒った怒った。オヤジはアンチ巨人だったんでね(笑)」(宮田)という。この62年は川上哲治監督2年目。同期の城之内邦雄は社会人からの入団ということもあって1年目から開幕投手を務め、24勝を挙げて“エースのジョー”と呼ばれる活躍を見せたが、一方の宮田は“鬼軍曹”別所毅彦コーチの下、雌伏の日々が続く。

 日大まではスリークオーターだったが、サイドスローやアンダースローを試し、最終的にはオーバースローに落ち着くが、この試行錯誤で体の使い方を覚えて、球速もアップしたという。この1年目は28試合の登板。川上監督が心臓の疾患を知ったことが転機となった。翌63年に当時としては珍しいリリーフ専門となり、47試合に登板。規定投球回には届かなかったが、防御率1.88の安定感で、短いイニングならプロでやっていけるという自信につながった。

 だが、逆風は止まらない。その翌64年、試合中に激痛が右肩を襲った。「たぶん亜脱臼。でも当時は野球による肩の痛みは“野球肩”と言われて、ロクな治療をしてもらえない。ごまかしながら投げていたら完全に壊しました」(宮田)。リハビリの日々が始まった。

逆風と逆転


肩の治療を行う宮田


 一度は引退も覚悟した肩痛。だが、落ちた筋肉を付け直し、体の仕組みや正しい投球フォームを徹底的に追及することで、投球の精度が上がってくる。迎えた65年は、やはりリリーフ専門でリーグ最多の69試合に登板。後楽園球場でのナイターでは午後8時半くらいにマウンドへ上がることが多く、“8時半の男”という異名も付いた。

 しかし、登板は決まってピンチの場面。緊張が高まると心臓の脈が異常に速くなり、収まるまで投げられないことも少なくなかった。ただ、これで投球の間が長くなったことで、打者がイライラするようになり、のちには意識して打者を焦らすようになる。もちろん、その余裕がない場面もあった。比喩ではない、命がけのマウンドだ。わずかなグラブの動きで川上監督に交代のサインを送ることもあった。それでも、しっかり打者を打ち取ってから、何事もなかったかのようにベンチへ戻った。その一方で、このままマウンドで死んでもいいと思ったことが何度もあったという。最終的には20勝5敗、規定投球回にも到達して、リーグ4位の防御率2.04をマークした。

 その後はヒジ痛、心臓に使っていた薬の副作用による肝機能障害などが続き、69年までプレーを続けるのが精いっぱいだった。だが、巨人を含む4球団で理論派の投手コーチとして大成。宮田を恩師として慕う投手は少なくない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM

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