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プロ野球20世紀・不屈の物語

横浜公園球場、ゲーリック球場、平和球場……横浜スタジアム今昔/プロ野球20世紀・不屈の物語【1929〜98年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

戦後の接収で初のナイターへ


横浜スタジアム(1998年撮影)


 今日、6月2日は、横浜港の開港記念日。小学校あたりで学んだことなどを思い返しながら書いてみる。横浜港は江戸時代の1859年6月2日(旧暦)、日米修好通商条約に基づいて開港された。筆者が知る限り、1980年代は市立の学校は休みとなり、同時に横浜開港資料館など市の施設が無料になるため、宿題でもあったのだろうか、友人たちと連れ立って、少人数で市の歴史を振り返る課外授業のようになるのが恒例だった。

 その帰り道に立ち寄るのが横浜公園で開催されていたバザー。この2020年は中止となってしまったが、それほど広くない敷地に多種多彩な屋台が立ち並び、手持ちの小銭でできることは限られていたのだが、小腹を満たしながら見上げていたのが横浜スタジアムの威容だった。まさに横浜大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)の“城”。他チームの本拠地よりも新しく、横浜のイニシャル“Y”を模した照明塔も独特で、なんとなく誇らしかったことを覚えている。ただ、“城主”たる大洋は低迷期。横浜スタジアムも雌伏の時代だった。竣工は1978年で、これを機に大洋は川崎から移転してきたのだが、この地と野球との関わりは、さらに古い。

 その前身は1929年に開場した横浜公園球場。横浜港の開港からほどなくして、その近くにはアメリカ人をはじめとする外国人の居留地が設置されていたから、この地がアメリカ由来のスポーツである野球との関わりが深いのも歴史の必然なのかもしれない。34年には沢村栄治(のち巨人)ら全日本と、ルー・ゲーリック(ヤンキース)ら大リーグ選抜との試合も行われている。初めてプロ野球の試合が行われたのは39年。だが、じわじわと日本は暗黒の時代へと沈み込んでいく。

 戦後、球場はアメリカ軍に接収されて、ゲーリック球場と改称。このときには後楽園や神宮なども接収されており、横浜だけが特別だったわけではない。ただ、接収が長引いたこともあって、他に先んずることになったのが、照明塔の設営だった。48年にはプロ野球の試合も再開されて、日本で初めてのナイターが中日と巨人の試合として挙行。2リーグ制となった50年も両リーグで試合が行われ、接収が解除されてからは、チームの本拠地になることはなかったものの、毎年のように試合が開催されている。55年には名称も横浜公園平和球場に。ただ、60年代に入ると、設備の老朽化が進んだこともあり、試合は減少の一途。パ・リーグは61年、セ・リーグは67年の試合が最後となる。改築計画が明らかになったのが76年9月。横浜スタジアムの胎動だった。

横浜21年目の歓喜


 大洋が横浜スタジアムへ移転するまでの紆余曲折は別の機会に譲る。77年11月に大洋は「横浜大洋ホエールズ」に名称を変更することを発表。市民球団として誕生した広島は別次元にいたが、プロ野球チームが地域密着を打ち出したのは当時としては異例のことだった。問題は、大洋の成績。2年連続の最下位で川崎から去った大洋は、横浜1年目は4位、2年目には2位と躍進したものの、それが「横浜大洋」としてのピークとなる。Aクラスは、この79年と、83年、90年の3度のみ。「横浜ベイスターズ」として心機一転を図った93年は3年連続5位、翌94年は5年ぶりの最下位に沈んだ。それでも、そんなチームも温暖な港町という横浜の気風と妙にマッチしていたようにも思える。人々は弱いチームを見守り、横浜スタジアムも敗戦で殺伐とすることは他と比べて少ない印象もあった。

 そんな風向きが変わったのが横浜20年目の97年だった。打ち出したら止まらない“マシンガン打線”とクローザーの“大魔神”佐々木主浩が圧倒的な存在感を放ち、最終的には2位に終わったものの、その勢いは翌98年に加速して38年ぶり2度目のリーグ優勝、胴上げは甲子園球場だったが、そのまま横浜は西武を破って日本一に。これが、横浜スタジアムが初めて歓喜の舞台になった瞬間だった。来る東京オリンピックの舞台となることも予定されている横浜スタジアム。まずは、この2020年の開幕を静かに待っている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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