週刊ベースボールONLINE

プロ野球20世紀・不屈の物語

時代に消えたセ・リーグ“初代”王者、戦地に消えた幻の鉄腕/プロ野球20世紀・不屈の物語【1936〜54年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

低迷から優勝、そして消滅


朝日・林安夫[右。左は渡辺静]


「ワシの速球が打てますかいな。ほら一丁、投げ込みますよ」

 まるで昔の野球マンガに出てきそうなセリフだ。野球マンガの隆盛は戦後、おおまかに高度経済成長期のことになるだろうか。ただ、冒頭のセリフは実在した右腕のもの。昭和の時代に野球マンガが少年たちを虜にするよりも、はるか昔、誕生して間もないプロ野球の話だ。

 プロ野球が2リーグ制となって70年が過ぎた。71年目となった2020年は異例のシーズンになっているが、さまざまな苦難を乗り越えながら、両リーグそれぞれで覇者が決まり、日本一を争うのだろう。日本シリーズの第1回は、日本ワールド・シリーズという名称だった。日本一に輝いたのは現在のロッテ、当時の毎日オリオンズ。一方で、セ・リーグの覇者は、現在のプロ野球12球団に残っていない。その名は松竹ロビンス。その起源はプロ野球が始まった1936年にさかのぼる。

 このときの名称は大東京。巨人、東京セネタース(43年オフに解散)に続く東京の3チーム目としてプロ野球に参加した。ネーミングライツにより球団の名称を改めた第1号でもあり、プロ野球は2年目の37年から春季、秋季の2シーズン制となり、その秋のシーズンからライオン歯磨と契約して、チーム名をライオンに。だが、1シーズン制2年目の40年オフにはプロ野球でも英語が禁止され、チーム名を朝日に改称している。

 ただ、大東京もライオンも朝日も変わらなかったのはチームの弱さ。この連載でも触れたように、40年は巨人の川上哲治とのタイトル争いを制した鬼頭数雄が首位打者に輝いたシーズンだが、1人のバットでは打開できないほど低迷は深刻だったのだ。それまでも、いまでいうAクラスは1度もなく、ライオンから朝日にまたがって2年連続で最下位に沈んだ。

 そして41年オフ、日米が開戦。皮肉にも、そこから風向きが変わる。旧制の一宮中で41年センバツで準優勝を果たし、翌42年に入団したのが、投げるたびに冒頭のセリフを発したといわれる林安夫だ。生年月日の記録は残っており、42年は20歳となるシーズンだったことになる。1年目からチーム105試合のうち71試合に登板して32勝22敗、防御率1.01で最優秀防御率。ただ注目すべきは、これらの数字ではない。

真夏の夜の夢


 51試合に先発して、投球回541イニング1/3に投げまくり、対戦した打者は2079人。これらはプロ野球記録だ。現在の計算を当時の林に当てはめると、1年で5度も規定投球回を突破したことになる。投げた球数は6663球。野球マンガでもリアリティーを感じない数字だ。続く43年は38試合の登板で20勝11敗。登板が減ったのは病気のためというが、それでも防御率0.89を残している。朝日も42年に8チーム中5位、43年は同4位と順位を上げた。だが、その43年オフに林は応召。そして、そのまま帰ってこなかった。その正確な場所も日時も伝わっていない。

 朝日は44年に6チーム中5位と転落、戦後はパシフィックとして復活したが、チームの雰囲気は変わらず。47年に太陽、48年は「点を取る」にあやかって大陽と改称を繰り返し、低迷も続いた。2リーグ分立で映画産業の松竹が親会社となったことが転機となってセ・リーグ制覇も、日本シリーズで敗れて内部分裂、52年オフに現在のDeNA、当時の大洋に吸収され、54年オフに松竹が経営から撤退したことで、完全に歴史へと消えた。48年シーズン途中から戦列に加わっていた弟の林直明が50年から3年連続2ケタ勝利と結果を残したことが光明だろうか。

 もしかすると、プロ野球の世界には野球マンガのようなパラレルワールドがあり、戦争による次元のねじれか何かで、向こうの世界から紛れ込んできたのが林安夫であり、戦地で再び次元がねじれたとかで、何かの拍子に向こうの世界へと戻っていったのではないか。驚異的な数字を残しながらも、それほど語り継がれていない不思議な右腕。真夏の夜の夢かもしれないが、プロ野球の歴史を変えたかもしれない男が、誰にも知られずに戦死したと考えるよりは救われる。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング