メジャー・リーグには数多くの日本人選手が挑戦してきた。
野茂英雄が道を切り拓き、
イチローが伝説となり、
佐々木主浩、
松井秀喜、
黒田博樹、
上原浩治も一流と呼ばれる成績を残した。NPBで活躍した選手がメジャーで成功するとは限らず、不本意な結果で終わった選手のほうが多い厳しい世界だ。一方で、「メジャーで通用しない」という評判を覆し、海の向こうで光り輝いた日本人選手も。以下の選手たちはその代表格だ。
※青木宣親の通算成績は昨年までの数字 ・新庄剛志
NPB通算成績 1411試合出場 打率.254、205本塁打、716打点、73盗塁
MLB通算成績 303試合出場 打率.245、20本塁打、100打点、9盗塁
阪神のスター選手として活躍し、2000年オフにFA宣言した際は阪神残留か、国内他球団への移籍で注目されたが、メッツへの入団を表明。まさかのメジャー挑戦で世間を驚かせた。懐疑的な見方が多かったが、勝負強い打撃で01年のシーズン終盤に四番を任され、外野の守備でも12補殺と攻守に活躍。02年にジャイアンツに移籍すると、日本人初のワールド・シリーズ出場を果たした。
日本ハムで日本球界復帰後も「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」という目標を掲げて有言実行した。
・大家友和
NPB通算成績 63試合登板 8勝17敗、防御率5.23
MLB通算成績 202試合登板 51勝68敗1ホールド、防御率4.26
MLBでNPBの実績を大きく上回る成績を残したのが大家だ。1994年ドラフト3位で横浜(現
DeNA)に入団し、在籍5年間で1勝のみ。かねてからメジャー挑戦を熱望しており、球団の了承を得て98年オフに自由契約で退団した。レッドソックスとマイナー契約を結ぶと、先発で勝ち星を挙げるなど3年間で6勝をマークし、01年途中にエクスポズ(現ナショナルズ)へ。02年にチーム最多の13勝、03年も2年連続2ケタ勝利の10勝を挙げ、05年途中にブリュワーズへ移籍して計11勝と先発の軸として活躍した。
・斎藤隆
NPB通算成績 403試合登板 91勝81敗55セーブ14ホールド、防御率3.75
MLB通算成績 338試合登板 21勝15敗84セーブ40ホールド、防御率2.34
大洋、横浜(現DeNA)でエース、抑えとして活躍したが最後の3年間は精彩を欠いた。2005年オフにメジャー挑戦を表明した際は35歳と高齢だったこともあり、移籍先が難航。ドジャースとマイナー契約を結んだが、日本での期待はそれほど大きくなかった。ところが、守護神を務めるなどドジャース在籍3年間で81セーブと大活躍。その後も4球団を渡り歩きセットアッパーとして奮闘した。
楽天で日本球界復帰後は44歳シーズンの13年に球団創設初の日本一に貢献した。

ブリュワーズ・青木宣親
・青木宣親
NPB通算成績 1246試合出場 打率.326、110本塁打、510打点、168盗塁
MLB通算成績 759試合出場 打率.285、33本塁打、219打点、98盗塁
ヤクルトで首位打者3度、最多安打2度獲得するなど安打製造機として活躍していたが、メジャーの評価は決して高くなかった。ポスティングシステムでブリュワーズが独占交渉権を得たが、十分なデータがないため首脳陣の前でプレーを披露するというテスト生のような扱いを受けた。それでもブリュワーズでレギュラーをつかんで実力を証明。シーズン打率3割は一度も達成できなかったが、7球団を渡り歩き、通算774安打は立派な数字だ。ヤクルト復帰後の現在も主力として活躍している。
・柏田貴史
NPB通算成績 203試合登板 4勝2敗1セーブ、防御率3.91
MLB通算成績 35試合登板 3勝1敗、防御率4.31
メジャーでの在籍は1年間のみだったが、その活躍が話題となったのが柏田だ。
巨人では変則的な左のサイドで95年にイースタンで最多勝を獲得も、一軍で登板機会に恵まれず。1997年2月に巨人から留学という形でメッツのスプリングトレーニングに参加し、首脳陣から高評価を得てセ・リーグの球団出身で初のメジャー・リーガーに。貴重な左腕の救援で35試合に登板した。メジャーの複数球団から獲得の打診を受けたが翌98年以降は巨人に残留し、左の中継ぎで活躍した。
写真=Getty Images