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プロ野球20世紀・不屈の物語

男気あふれる逸話の数々。日本ハムの“親分”大沢啓二の“子分”時代/プロ野球20世紀・不屈の物語【1956〜65年、76〜84年&93〜94年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

高校時代に球審へキック



 21世紀に北海道で定着した日本ハムが20世紀の昔は東京に本拠地を置いていたことは、この連載でも何度か触れてきている。その当時の日本ハムを象徴するのは誰か、とファンに問えば、多くの答えが、この男の名を挙げるのではないか。大沢啓二。当時を知る人には当たり前のことだが、選手ではない。監督だ。選手が目立たなかったわけではない。大沢監督の存在感が図抜けていたのだ。

 チームが日本ハムとなって3年目の1976年に監督となり、その再建を託される。背番号は“ハム”にちなんで86番。81年に日本ハムとなって初のリーグ優勝に導いた手腕だけでなく、そのパフォーマンスでも人気を博した。83年いっぱいで退任して球団常務に転じるも、シーズン途中に植村義信監督が辞任したことで、異例の“兼任監督”として閉幕まで指揮を執る。93年に監督としてグラウンドに復帰すると、その舌鋒もヒートアップ。優勝した西武に1ゲーム差の2位という善戦もさることながら、その言動はパ・リーグを盛り上がることに貢献、オフにはパ・リーグ特別功労賞が贈られ、愛称の“親分”は流行語に選ばれた。

 翌94年は一転、最下位に沈むと、当時の本拠地だった東京ドームでの最終戦で土下座。時代は平成となっていたが、いい意味で昭和の香りを残した男気あふれる“親分”だった。ただ、選手としては、パ・リーグひと筋ではあったものの、日本ハムの前身チームでもプレーしたことはない。プロ野球の元祖“親分”といえる鶴岡一人監督の率いる南海で抜群の男気を発揮した“子分”だった。

 らしい逸話はプロ入り前からで、神奈川商工高3年の夏、県大会2回戦で敗れると、自分たちに不利な判定を繰り返した球審にキック。すると後日、その球審が訪ねてきて「自分は立大の人間だ。君のように野球がうまくて元気な選手が必要だ」と言われ、自分を蹴った若者に頭を下げる熱意に打たれる。これで立大への進学を決めた。立大では4年のときに鶴岡(当時は山本)監督が訪ねてきて、「どうしても南海は日本一になれない。君の力で俺を男にしてくれ」と言われたことで、承諾。一緒に誘われたのが、まだ2年生の長嶋茂雄杉浦忠だった。

放棄試合で“親分”の道へ?


南海時代の大沢


 大沢は56年に入団、このときの登録名は「大沢昌芳」で、1年目から外野の定位置をつかむ。だが、南海は日本一どころか、優勝にも届かない。長嶋は巨人へ入団、これが両者の確執につながったのだが、杉浦は約束どおり58年に南海へ。そして翌59年、3年ぶりに王座へ返り咲いた南海は、日本シリーズで長嶋のいる巨人と激突した。大沢は第1戦(大阪)で先制の適時打を放つと、第3戦(後楽園)ではサヨナラのピンチを好捕と好送球で防いだ。第4戦(後楽園)は4連投の杉浦が完封。このときの杉浦については機会を改める。これで南海は2リーグ制となって初の日本一に。無傷の4連勝も日本シリーズで初めての快挙で、MVPは杉浦に輝いたが、その陰で渋く貢献した大沢は「ようやく鶴岡さんの言葉に応えられた」と声を弾ませた。

 だが、9年目となった64年オフ、引退とスカウト就任を言い渡される。当時、同じ球団に10年間、在籍した選手にボーナスが出る制度があり、それを回避するべく9年目のオフにトレードで出すことが横行していたが、大沢の場合は引退勧告。ヒザの故障などで出場機会を減らしていたことは確かだったが、心意気で入団を決め、骨をうずめるつもりでいた男が、この球団の不人情を受け入れるはずもなかった。

 翌65年に東京(現在のロッテ)で1年だけプレーして、引退。そして指導者の道を歩み始める。70年に二軍監督として優勝を経験。翌71年、放棄試合の責任を取らされる形で濃人渉監督が二軍監督に“降格”させられると、一軍監督へ“昇格”、72年いっぱいまで指揮を執った。日本ハム監督の就任も「三原です」という1本の電話から。電話の向こう側にいるのが歴戦の名将で日本ハム球団代表の三原脩だとは、とっさには気づかなかったという。三顧の礼で「君が適任」と言われ、承諾したものだった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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