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プロ野球20世紀・不屈の物語

シーズン47完投のプロ野球記録を残した稀代の剛腕、マウンドに倒れる/プロ野球20世紀・不屈の物語【1942〜61年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

本当は最初から巨人だった?



 20世紀のプロ野球を知るファンには、解説者としての露骨なまでの巨人びいきに、それを吹き飛ばすかのような豪快な笑い声を記憶している人も多いだろう。当時のプロ野球記録だった通算310勝を残した稀代の剛腕、別所毅彦だ。本格的に伝説が始まったのは戦後だが、プロ入り前の序章もすさまじい。センバツで左ヒジを骨折したが「代わりの投手もいないから続投。包帯で固く巻き、首から下げて投げました。グラブも外した」(別所)が、敗戦。ただ、これで全国区となる。

 プロ野球よりも大学野球のほうが地位が高いと思われていた時代。多くの大学から学費免除で誘われ、慶大に進むつもりだったが、戦局の悪化で特待が認められなくなり、試験を受けたが落ちて、日大へ。秋に恩師から勧められて巨人への入団を決めたが、「実家に阪急(現在のオリックス)、阪神、南海が来ていて、おふくろが南海と契約していた」(別所)ことで、母の意思を尊重して1942年10月に南海(現在のソフトバンク)へ入団した。

 閉幕も迫っていたことで2試合のみの登板だったが、翌43年にはノーヒットノーラン。だが、オフに兵役へ。どうせならと特攻隊に志願するも、体が大きく特攻機のコクピットに入らず。幸運にも五体満足で終戦を迎えた。多くの選手が戦火に散ったが、もし同様であれば、この剛腕が語り継がれることも少なかっただろう。我々に残る豪快な記憶もない。

「投げたら完投は当たり前だよ」、「直球を打たれた相手には抑えるまで徹底して直球を投げ続ける。投手は常に打者より強くなければならない」、「テクニックには限界がある。強い意志が念力を生み、持っている才能以上のエネルギーを生む」……。こうした発言の数々もインパクトがあったが、現役時代はグラウンドの外でも大きなインパクトを残している。

 南海の契約が切れる48年のオフ。戦後の風景を想像してほしい。「当時は、スター選手が再契約の際に(球団から)家をもらうことが多かった。僕も結婚したばかりだったんで、家が欲しいと言ったらダメと。だったら、せめて他の球団と同じくらいの年俸が欲しいと。南海だけ異様に安かったんですよ。でも、それもダメと。特別扱いするわけにはいかないから、イヤなら出ていけって言われました」(別所)。これで巨人へ移籍することにしたことが大騒動に発展する。いわゆる“別所引き抜き事件”だ。

プロ野球記録の前年に……


 巨人が48年シーズン中から接触していたことで、別所は翌49年の開幕から2カ月の出場停止。復帰しても、ファンのヤジにさらされた。「3、4年は続きました。脅迫状が来て警察に警護してもらったこともあります。南海に育ててもらったクセに出ていきやがってって。そのとおりなんですがね(笑)。働き盛りだったし、戦争の2年と、この2カ月は残念でしたね。もう少し勝ち星を増やせたかもしれない」(別所)と悔やむ。

 50年に2リーグ制となってから最多勝2度、最優秀防御率1度の活躍で巨人の黄金時代に貢献。直球で真っ向勝負という本格派の投球から晩年はシンカーも交えるようにはなったが、13年も続いていた2ケタ勝利が途切れた58年オフに「登板が少ないから調子が上がらない」と契約更改の際にシーズン35試合の登板を条件に入れようとして水原円裕監督を「指揮権の侵害」激怒させたこともあった。

 通算310勝は更新されたが、不滅の記録として残るのは、30勝を挙げて初めて最多勝を獲得した47年の47完投だろう。投手の分業制が定着した昨今、2019年の最多はセ・リーグが6完投、パ・リーグは2完投だ。ただ、そんな鉄人もマウンドで倒れてしまったことがあった。その前年の46年。「あの年は野球より食べ物」(別所)と1勝につき米2合という条件で投げまくり、南海(このシーズンはグレートリング)は優勝しているが、すでに優勝が決まり、そのシーズン最終戦のことだった。「栄養失調でした。コメだけ食べていても、なるんですね。だから優勝記念の写真に僕は映ってないんですよ」(別所)。時代もすさまじかった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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