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来日6年間で240本塁打 「控えの助っ人」から成り上がった強打者とは

 

「評価を変える自信はあった」


パワーあふれるスイングから横浜、中日で数々の驚弾を放ったウッズ


 日本で活躍した「史上最強の助っ人」を野球ファンに聞くと、十人十色の意見が返ってくる。ランディ・バースブーマー・ウェルズアレックス・ラミレスタフィ・ローズアレックス・カブレラオレステス・デストラーデ……いずれも強烈なインパクトを放った選手たちだ。そして、この猛者たちにヒケをとらない活躍をした強打者がいる。横浜(現DeNA)、中日で毎年ハイレベルな結果を残した長距離砲のタイロン・ウッズだ。

 ウッズは日本球界に来る前、韓国球界で5年間プレーしている。来韓1年目の1998年に当時歴代最多の42本塁打を放ち、本塁打、打点の2冠王に輝く。5年間で通算174本塁打を放ち、韓国プロ野球で「史上歴代最強の外国人」と呼ばれた。ただ、2002年オフに横浜に入団した際は「韓国の投手は日本の投手よりレベルが落ちる」と活躍に懐疑的な見方も少なくなかった。当時の球団の期待もそれほど大きいとは言えない。同じ一塁手で入団したメジャー・リーガーのスティーブ・コックスが年俸3億円に対し、メジャー経験がまったくないウッズは6分の1の5000万円。格安の「控え助っ人」という位置づけだった。

 ただ、その序列をすぐにひっくり返す自信があったという。「キャンプで実際にバッティングを見てもらうことで、その評価を変える自信はあった。アメリカではマイナーリーグ・プレーヤーだったが、このままじゃ終わらないぞ、という気持ちでした。『あくまでもオレはメジャーリーグ・プレーヤーなんだ』と、自分のことを信じていましたし、入団当初の評価はいい発奮材料になった」と開幕後に行われた週刊ベースボールのインタビューで語っている。

 さらに、「韓国であれだけ活躍したのにどうしてなんだ、という思いは?」という問いに対しては「プレーを見せる機会さえ与えられれば、自分の実力を証明する自信はあったし、最初から一軍を約束されたような契約は欲しくなかった。たとえ、私が現役のメジャー・リーガーだったとしても、日本では野球をしたことがないわけだから。来日後に、日本での成績を評価してもらえればいい、と考えていた」と答えている。

 その言葉どおり、コックスが故障で離脱している間にウッズは不動の四番として結果を残し、来日1年目の03年に40本塁打でアレックス・ラミレス(当時ヤクルト)とタイトルを分け合い、04年もタフィー・ローズ(当時巨人)と並ぶ45本塁打で2年連続本塁打王に。異国の文化にも積極的に溶け込もうとしていた。初めて覚えた日本語は「ミズ、クダサイ」。日本にいる年数が長くなるにつれて日本語も上達し、「日本語に直すと私の名前は森ね、筋肉モリモリよ」と冗談を言ったり、チームメートと談笑したりする姿が日常の風景だった。

ナゴヤドームでもアーチ量産


06年の優勝に貢献するなど中日でもウッズの打棒は爆発した(左からウッズ、福留孝介立浪和義


 04年オフに中日へ。球団史上最高額となる年俸5億円の2年契約を結んだ。来日した時の年俸の10倍を勝ち取るジャパニーズ・ドリームを実現したが、ここからさらにすごみが増す。06年に打率.310、47本塁打、144打点と圧巻の数字で3度目の本塁打王と初の打点王を獲得し、リーグ優勝に大きく貢献。中日で4年間プレーしたが、いずれも35本塁打を超えた。広いナゴヤドームを本拠地にこれだけの本塁打を量産することは至難の業だ。左翼に消える場外弾を連発するなど規格外の飛距離、逆方向の右翼に突き刺すような弾丸アーチと広角にスタンドへ飛ばす打撃技術にファンは酔いしれた。シーズン打率3割を2度マークするなど確実性も兼ね備えており、06、07年に2年連続リーグ最多四球を選ぶなど出塁率も高かった。

 39歳の08年シーズンも打率.276、35本塁打と外国人で日本球界初の6年連続30本塁打をマークしたが、同年オフに年俸6億円からの大幅減俸を受け入れず中日を退団。「まだまだできる」と惜しむ声が多かった。来日6年間で打率.289、240本塁打、616打点。韓国時代を含めると通算414本塁打とアジアのプロ野球界に名を刻んだ「伝説の助っ人」と言えるだろう。

写真=BBM
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