一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 巨人の多摩川キャンプ始動
今回は『1972年2月21日号』。定価は90円。
1972年2月1日、いよいよキャンプイン。
巨人は宮崎入りの前に多摩川でスタートを切った。
話題は
柴田勲のセンターからライトへのコンバート案。外野は俊足強肩がセンターの時代だったが、左打者が増えたこともあるし、ベースランニングの進化で、従来のライト方向への二塁打性の当たりでサードまで走るライナーへの対策もあり、肩の強い柴田を置くプランが出ていたという。
若手では3年目のショート、
河埜和正を宮崎キャンプ組に抜てき。前年、ファームの打点王だ。
川上哲治監督は、
「実にいい。打てるし、守れるし、足もある。二、三年たったら、これはもう楽しみです」
と絶賛していた。
なお予定の30分前集合と言われる「巨人時間」。11時スタートの初日は、ほとんどの選手がそのとおりに来たが、一人、2分前にサンダー
バードで到着したのが
王貞治だった。
波乱のスタートは南海だ。契約更改で
小池兼司が「トレードに出してほしい。あんな監督の下ではやっていられない」と爆弾発言。
野村克也監督は当初、「ついてこれんちゅうやつにはついてきてもらわんでええ」と吐き捨てたが、その後、「人間は誰にだって不満がある。いちいち取り上げていたらきりがない」と黙殺することにした。
もともと野村監督に対する批判的ムードはあった。
「話しかけても答えてくれないし、グラウンドであいさつしても返事もしてくれない」
「その場の思い付きで言われてはたまらない」
などという声が古参選手からあった。
鶴岡一人監督を慕う選手たちは、無口で何を考えているか分からない野村監督への不満を持っており、一方、野村監督も「いちいち言わんでも自分の考えはみんな分かっているだろう」という思いもあった。
野村監督は急きょ中モズ球場の合宿所で1人30分から1時間、ヒザをまじえて語り合うことにした。野村対話教室とも言われ、若手からのスタートだったが、小池、
三浦清弘、
広瀬叔功ら不満分子と言われていたベテランともやりたいという。
「上に立つ人間は、ちゃんと筋の通った信念を持っていなければならない。そしてそれを構想どおり受け取ってくれなくては芯の通ったチームにはできない」
と野村監督は話していた。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM