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野手から投手に復帰して「松井秀喜キラー」と呼ばれたドラ1左腕とは

 

野村監督の助言でサイドへ


出戻った阪神で変則左腕として復活した遠山


 トレード、戦力外通告……紆余曲折を経て、球界を代表するスラッガー・松井秀喜を抑え込み、「顔も見たくない」と言わしめた苦労人左腕がいる。元阪神の遠山奬志だ。

 遠山はPL学園高の桑田真澄清原和博と同学年の「KK世代」。1985年のドラフトで6球団が競合した清原和博の「外れ1位」で阪神に入団した。KKコンビの陰に隠れていたが、遠山も投打の「二刀流」で超高校級の評価だった。八代第一高(現秀岳館高)では快速球左腕として名を馳せ、ノーヒットノーランを11回記録するなど高校通算69勝3敗。通算35本塁打と左の強打者としても注目されていた。

 高卒入団1年目の86年に先発ローテーションに入り、直球が自然にスライドする「真っスラ」を武器に8勝をマーク。桑田は2勝に終わったため、同年の高卒新人投手で最高の成績だった。「あのときは無我夢中で木戸(克彦)さんのサインにうなずいて、そのとおりに投げていました。何も分からないまま投げていたのが良かったんじゃないですか」。阪神のエースとして未来を嘱望されたが、シーズンオフに参加したアメリカの教育リーグでヒジと肩を壊してしまい、直球が微妙に変化しなくなった。結局、以降、4年間で4勝しか挙げられず、90年は7試合の登板のみに終わり、オフに高橋慶彦とのトレードにロッテへ。左肩痛は癒えず外野手に転向して96年にはイースタンで最多安打をマークしたが、97年限りで戦力外通告を受けた。

 まだ野球を続けたい。古巣・阪神のテスト入団に野手として受けたが思わぬ結果に。吉田義男監督の要望で投球を披露したところ、高評価を受けて復帰が決まった。さらに、99年に就任した野村監督の助言でオーバースローからサイドスローに投球フォームを改造。登録名を本名の遠山昭治から遠山奬志に改名すると、「左殺し」という役割で光り輝く。99年は63試合登板で2勝1敗1セーブ、防御率2.09の好成績でカムバック賞を獲得。ファンの脳裏に鮮明に焼き付いている姿は宿敵・巨人の松井秀喜、高橋由伸を抑え込んだ圧巻の投球だろう。同年は松井を13打数無安打と完ぺきに抑え込み、球場で遠山の名前がコールされると、阪神ファンから地鳴りのような大歓声が送られた。

「もともと上からよりも、横からのほうが投げやすい、スムーズなイメージがありました。それに、なぜ、どの場面で、どのボールを打たれているのか、それらのデータを研究し、組み立てに生かすことが大切。あと、もともと左打者のインコースに思い切って投げられるタイプ。ましてや横のほうがシュートも投げやすい。足元でボールを動かされたら、バッターも嫌なもんです。球速が遅くても、動かすことで十分に目の錯覚を起こせる。そうやって打ち取れると楽しい」と遠山は当時、週刊ベースボールのインタビューで語っている。

最後は故障で……


引退試合で涙が止まらなくなり、星野監督(左)にあやされるようにしてベンチに戻った


 99年から3年連続50試合以上登板し、救援陣の屋台骨を支えたが、最後は故障で力尽きた。2001年に座骨神経痛のような症状に見舞われ、02年に投球できなくなるまで腰痛が悪化。23試合登板で防御率9.49と精彩を欠いた。チームが若返りを進めていた方針もあり来季の戦力構想から外れていたことから、現役引退を表明。最終登板となった10月14日の中日戦(甲子園)で渡辺博幸から三振を奪うと涙が止まらない。「これでユニフォームを脱ぐんだと思うと涙を止められなかった」。星野仙一監督に肩を抱かれながらマウンドを後にした。

 引退後は阪神で二軍軍投手コーチなどを務め、昨年11月に浪速高の野球部監督に就任。公式戦初采配となった大阪独自大会2回戦で白星デビューを飾った。野球への熱い情熱は消えない。大阪には履正社、大阪桐蔭と強敵が立ちはだかるが、現役時代も球界を代表する格上の強打者たちを抑え込んできた。今後は指導者として教え子たちと新しい夢を追いかける。

写真=BBM

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