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衣笠祥雄氏が「3000安打打てた」と評した球界きっての「モテ男」とは

 

猛練習でスイッチに


赤ヘル黄金時代の衣笠(左)、高橋


 広島一筋23年間で世界歴代2位の2215試合連続出場を果たし、NPB通算2543安打をマークした衣笠祥雄氏が生前、「安打だけを狙えば3000安打を達成していたかもしれない」と打撃技術を高く評価した選手がいる。「史上最高のスイッチヒッター」と呼ばれた高橋慶彦だ。

 高橋は北海道で生まれ育ち、4歳のときに東京に転居。城西大付属城西高に進学すると「四番・エース」で3年夏に同校史上初となる甲子園出場の快挙を成し遂げる。1回戦・佐世保工高戦で完封勝利を飾ったが、投打で全国的に目立つ存在ではなかった。定岡正二(鹿児島実高)、土屋正勝(銚子商高)、永川英植(横浜高)、工藤一彦(土浦日大高)の4投手が「高校ビッグ4」と形容され、高橋は卒業後に大学進学を考えていた。ところが、広島のスカウト・木庭教の眼力が野球人生を変える。高橋の「俊足」に大きな可能性を感じ、75年にドラフト3位で広島に入団する。

 入団後間もなく打者に転向した。「何とかなるだろうと思って入ったけど、フタを開けたらなんともならん。自主トレのときはみんなタラタラやっているから分からんかったけど、キャンプに行ったときクビになると思った。そのとき、古葉(古葉竹識)監督が内野守備走塁コーチだったんだけど(シーズン途中から監督)、『慶彦、プロ野球って足だけでもメシが食えるんだぞ』って方向性を示してくれた」と本人は述懐する。

 3年目後半からは、その古葉監督の指示でスイッチヒッターに。「左なんて生まれてから1回もやったことないのにね。でも、俺は練習すれば何とかなるという頭があった。計算したら簡単なんだ。野球を小学3、4年くらいから始めて、そのころ20歳かな。だったら、その9年か10年分を左で1年振ればいいや、と」。山本一義打撃コーチが付きっきりの猛特訓。手のひらがボロボロになってバットから離れなかったという。

「離れないし、離したくないんだよね。離したら、また握るとき痛いからね。朝起きたときも手がぎゅっと握った状態で固まっていて、指を一本一本、引っ張って開いた」。信じられないような練習量をこなし才能が開花、78年からレギュラーに定着する。79年には33試合連続安打の日本記録を樹立し、日本シリーズで打率.444でMVPに輝いた。「赤ヘル機動力野球の申し子」と呼ばれ、打率3割を5度マークし、85年に73盗塁を記録するなど盗塁王を3度獲得。20代後半から4年連続20本塁打とパワーとスピードを兼ね備えたスイッチヒッターはプロ野球界に革命を起こしたと言われた。

2000安打に残り174本で


左右両打席から快打を連発した


 端正な顔立ちと華やかなプレースタイルで女性ファンの人気もすごかった。交友関係が広く芸能人とも浮名を流して「夜の盗塁王」と揶揄されたことも。ただ当時のチームメートたちが「あいつほど練習した人間は見たことない」とうなるほど並外れた練習量で努力の人だった。また、正義感が強く若手のころから首脳陣や先輩にも堂々と意見をぶつけることから、「生意気だ」と衝突することも少なくなかった。87年には開幕2日前に催された激励会を「時期が悪い」とボイコット。球団が激怒して開幕から2週間の出場停止を言い渡されたことも。長いものに巻かれず、納得いかないことに異を唱える。無骨な生き方に男性ファンも多かった。

 広島を象徴する看板選手だったが、同じ遊撃手の野村謙二郎が台頭した影響もあり、89年オフに高沢秀昭水上善雄との大型トレードで白武佳久、杉本征使とともにロッテへ。金田正一監督は「一番・左翼」の構想だったが、春季キャンプ中盤で左足太ももを痛めて頓挫。内野でも守るポジションがなかったため、わずか1年の在籍で同年オフに遠山奬志とのトレードで阪神へ移籍する。

 しかし、輝きは取り戻せなかった。92年限りで現役引退。18年間の現役生活で打率.280、163本塁打、604打点、477盗塁。通算1826安打と2000安打にあと174安打足りなかった。世渡り上手であればもっと長くプレーできたかもしれない。ただ、それでは高橋の魅力が半減してしまう。泥臭いが華麗さも併せ持ち、ファンに愛された名選手は時代を越えて語り継がれていくだろう。

写真=BBM
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