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捕手からコンバートで覚醒 「日本一のセンター」の異名を取った選手とは

 

持ち味は抜群の身体能力


スピード感あふれるプレーは見る者を魅了した


 捕手からほかのポジションにコンバートして素質を開花した選手は少なくない。プロ通算2000安打をマークした和田一浩小笠原道大、2215試合連続出場の日本記録を持つ衣笠祥雄も平安高では強肩強打の捕手で甲子園に2度出場している。プロ21年目の39歳で40本塁打、100打点をマークして史上初の本塁打王、打点王に輝いた山崎武司広島で不動の四番として活躍した江藤智も高校時代は強打の捕手だった。

 上記の選手たちに共通しているは自慢の打力を生かすため、捕手に比べて守備の負担が少ないポジションにコンバートされていることだ。その点でこの選手は異色と言える。捕手から外野手にコンバートされ、「日本一のセンター」と称された元ヤクルト飯田哲也だ。

 飯田の持ち味は身体能力の高さだ。誰よりも速く走り、高く飛ぶ。現役時代に出演したTBS系『スポーツマンNo.1決定戦』では5回出場し、他競技のトップアスリートを抑えて第1回、第5回大会で優勝している。特にスピード系の種目で絶対的な強さを見せ、第1回大会のDASH(50メートル走)で6秒29、第2回の同種目でも6秒26と記録を更新して2連覇。陸上専門家の間で「陸上競技用スパイクを履けば5秒台は出る」、「陸上をしていたら五輪に出場できる素材」と絶賛されるほどだった。

 類まれな俊足を誇った飯田だが、幼いころに後楽園球場で見た王貞治張本勲のプレーに感動してプロ野球選手になる事を決意している。調布市立神代中学校で投手を務め、3年時には市大会で優勝。拓大紅陵高に進学すると外野手になったが、2年時に50メートル6秒1の俊足と遠投100メートル以上の強肩が買われて捕手にコンバートされた。3年時に春夏続けて甲子園に出場。春のセンバツでは「五番・捕手」で本塁打を放ち、守備でも1イニング3補殺を記録するなど攻守で活躍した。

 87年にドラフト4位でヤクルトに入団。捕手でレギュラーを目指したが、3年目の89年オフに転機が訪れる。新たに監督に就任した野村克也監督に身体能力を評価され、中堅、遊撃、二塁とさまざまなポジションを守る。90年は二塁のレギュラーで117試合に出場して29盗塁をマーク。91年は外野手として起用を予定していたジョニー・レイが二塁での出場にこだわったため、飯田は急遽中堅を守ることに。このコンバートが野球人生を大きく変える。

 俊足を生かした並外れた守備範囲、球際の強さ、強肩で97年まで7年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。フェンスに駆け上がる捕球も持ち味で、ホームランボールを捕球する常人離れしたスーパープレーを見せたこともあった。93年の日本シリーズ・西武戦では第4戦で1点リードの8回二死一、二塁で鈴木健の中前打に素早く反応し、70メートル近いダイレクトのバックホームで二塁走者・笘篠誠治の生還を阻止。4勝3敗で日本一に輝いたが、このビッグプレーが日本シリーズの分岐点になった。飯田は週刊ベースボールの取材でこの補殺を、「生涯で守備のベストプレー」に挙げている。

子どもたちに夢を与えるプレー


90年代のヤクルト黄金時代で光り輝いた


 ヤクルトが黄金時代を築いた90年代に、飯田は攻守で不可欠な存在だった。守備だけでなく、92年に33盗塁をマークして盗塁王に輝くなどリードオフマンとしても活躍。野村監督時代の4度のリーグ優勝に大きく貢献した。00年以降は度重なる故障や真中満などほかの外野手の台頭で出場機会を減らし、04年オフに無償トレードで楽天へ。05年は54試合の出場ながら打率.331の高打率を残し、若手たちに自身の経験を伝えるなど良きお手本になった。

 06年限りで現役引退。プロ20年間の野球人生で1505試合出場、打率.273、48本塁打、363打点、234盗塁。1248安打を積み上げた。飯田は94年から楽天に移籍するまでヤクルト在籍時の11年間、神宮球場の外野指定席に「飯田シート」を設置し、自費で子どもたちを毎試合20人招待していた。自身が王貞治や張本勲のプレーにあこがれたように、少しでも多くの子どもたちに夢を与えられるようなプレーを見せたい――飯田の美技に魅了されて野球を好きになった子どもたちはたくさんいるはずだ。

写真=BBM
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