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パンチ佐藤の漢の背中!

JR東日本の関連会社で働く元巨人の「松坂世代」左腕の実直な歩み/パンチ佐藤の漢の背中!

 

「松坂世代」に生まれて2002年巨人に入団した石川雅実さんは、現役引退後、九州で約10年間勤務したあと、古巣・JR東日本の関連会社である(株)JR東日本環境アクセスに転職。駅構内や関連施設の清掃業務などを担当する同社の総務部で業務に励む石川さんの職場を、パンチさんが訪問した。
※『ベースボールマガジン』2020年8月号より転載

「頭を使わなければダメ」心に響いた元木さんの言葉


2002年、ドラフト4巡目で巨人に入団。原監督の右隣、背番号36が石川さん


 2001年秋のプロ野球ドラフト会議。石川雅実さんは、当時在籍していたJR東日本東京支社の応接室で、読売ジャイアンツの4巡目指名を知った。もっと下位指名だと予想して、食事を取っていた真っ最中。慌てて記者会見の準備を始めた。

 当時、20歳。「巨人に指名されただけで、ちょっと有頂天になっていた自分もいました」と振り返る。初めて原辰徳監督に会ったときのことは、なんだか夢見心地で、あまりよく覚えていないという石川さん。まずはそのプロ入りに至る道のりから、パンチさんが聞いていく。
 
パンチ 高校から直接JR東日本に入って、プロにかかるかもしれないと思ったのはいつごろですか?

石川 3年間在籍させていただいた中で、自分が社会人でやっていけるという実感さえなかったです。どうやったら抑えられるのか、抑えるにはどういうふうに投げたらいいのか、模索している間にプロの話をいただいて、完成する前、中途半端なまま階段を昇ってしまった感じです。

パンチ じゃあプロにスカウトされたのは、将来性を買われたのかな?

石川 運がよかったんだと思います。阪神にいた赤星(赤星憲広)さんが私と同期入社で、スカウトの方が赤星さんを見に来たとき、私がたまたまピッチング練習をしていたとか。

パンチ それはツイてるね。

石川 それから私と同じ年のドラフトで五十嵐(五十嵐貴章)さん、萩原(萩原多賀彦)さんという2人のピッチャーがヤクルトに行っているんです。そのお2人をスカウトが見に来たとき、私がたまたま試合で投げてツボにはまったというか。3月のスポニチ大会で、優勝投手になれました。

パンチ 自信ないって言いながら、いいピッチングしていたんじゃない(笑)。

石川 当時はまだ金属バットを使っていて、ウチは6点取られても10点取れる打力のチームだったんです。そういう環境にも恵まれました。

パンチ プロから声が掛かって、自分の中で何か変わった? あるいは練習方法が変わったとか。

石川 プロに行くなら細かいコントロールはもちろん、もう少しスピードがなければいけないと思いました。1、2年目は体力強化、ウエートトレーニングにかなり重きを置いてやってきたんですが、ウエートはやめて、3年目は投げて肩や体を作ることを心掛けました。

パンチ さて、巨人入りを果たし、背番号36をもらった。高橋尚成君が付けていた、出世番号だよ。それで最初のキャンプは一軍でしょう? どんな印象だった?

石川 上原(上原浩治)さん、尚成さん、桑田(桑田真澄)さん、入来(入来祐作)さんといった一線級の方々のピッチングを見て、「これはとんでもないところに来たな」というのが第一印象でした。

パンチ どうしたら、その中で一軍に残れると思いましたか?

石川 そのときに、「やはりコントロールだな」と思いました。スピードよりも、まずはキャッチャーが構えたところへ、いかに寸分なく投げられるか。それだけ考えるようになりました。

パンチ そこも含め、プロに入って何か心に残るアドバイスはあった?

石川 ピッチングのことではないんですが、一番印象に残っているのは、元木(元木大介)さんから言われた言葉です。「バカじゃ野球はできないんだぞ」と。セットプレーにサインプレー、けん制、ピックオフプレーなどの合同練習のときでした。「ボールをグラブで持つのか、利き手で持つのかで、球種が分かる。グラブで持たないと、相手に球種がバレるぞ。お前の握り方だと、腕の筋肉の動きでプロはクセを見抜くから」。それから、サインの見方についても、「お前がずっとサインを見ていたら、けん制が来るって分かるよな。だからこういうサインプレーがあるわけだろ。頭を使わないと、プロじゃやっていけないぞ」と。それは今も覚えています。

パンチ 石川君はテクニックとか、ずる賢さとか、そういうところは学ばずに真っすぐ来ちゃった感じなんだね。

石川 ただ速い球を投げたいとか、すごいカーブを、変化球を投げたいということしか考えていませんでした。

パンチ その後はどう「頭を使うこと」を意識したんだろう。

石川 あのときはなんだか、「俺、バカなんだな」って逆に開き直ってしまったようなところがあって……。結局、自分の中で「この試合でここまで抑えられたら」と、結果しか見ていなかった。変化球もストレートと同じ投げ方にしなくちゃいけないとか、そういう細かいことを考えるレベルまではいけませんでした。

両親に戦力外通告を告げるのがつらすぎて…


パンチ佐藤氏(右)と石川さん


パンチ でも1年目に一軍に上がっているんでしょう?

石川 オープン戦で4、5試合に投げて、初めは順調に抑えていたんですが、最後にダイエー(現ソフトバンク)戦で炎上しまして。開幕は二軍スタートで、5月に一軍に上がって2試合だけ投げました。

パンチ 記憶に残っているシーンはある?

石川 どちらもオープン戦なんですが、近鉄の北川(北川博敏)さんを抑えたのはとても印象に残っています。あと、ダイエー戦で鳥越(鳥越裕介)さんに打たれたとき、「プロってこんなにボールが飛ぶんだ」と思った、そのシーンはまだ鮮明ですね。

パンチ しかし2年で戦力外通告とは、巨人は厳しいね。そんな中で一番よかった思い出はなんですか?

石川 どの試合でどう、というより、プロ野球選手になれて親孝行できたかな、ということですね。もちろん3年でも5年でも、もう少し長く現役ができればなお、よかったんですが。幼少期から親父にプロ野球選手になれるよう頑張れと言われていた、その夢を叶えられたことはよかったと思っています。

パンチ 逆に悔しい思い出は?

石川 肩を壊して、2年目のシーズンを棒に振ったことですね。初めは「あのとき肩を壊していなかったら」と常に思っていました。

パンチ 戦力外通告を受けたときは、どんな気持ちだった?

石川「あ、やっぱりか」というのがまず一つ。でも、プロになって「よかったね、おめでとう」と心から喜んでくれた両親に対して、2年でクビになったなんてなかなか言い出せなくて……。お世話になっていたJR東日本のマネジャーさんにだけ、こっそり電話して今後について相談しました。

パンチ 翌年の台湾行きは、どこから出た話だったの?

石川 巨人の二軍投手コーチだった高橋一三さんに、「一度海外に行ってみたらどうだ? それでもう一度NPBに戻ってこられるよう、頑張ってみてもいいんじゃないか」と声を掛けていただいて、統一ライオンズに入団しました。

パンチ 台湾では1シーズンやったのかな。

石川 5カ月です。やはり肩が上がらず、思うような結果が出ませんでした。

パンチ 帰国後、さてどうしよう、と?

石川 ひとまず野球から少し離れてみよう、と思いました。実家に戻って、1カ月ほどのんびりと。高校を卒業してすぐJRの寮に入っていたこともあり、少し親との時間を作ろうと思ったんです。

パンチ そのとき、親父さんとはどんな話をしたの?

石川 親父には「もう一回頑張れ」と言われました。でも、「もうこれ以上、腕が上がらないんだ」と自分の肩の状態を見せて、「だから野球はあきらめて、違う道で頑張ります」と話をしました。親父と結構長い時間、そうやって話ができたのはよかったと思います。

パンチ お袋さんはなんて?

石川「いいんじゃない?」って。ウチのお袋は、そういう人なんです。

 今は社会人野球時代の古巣・JR東日本のグループ会社・JR東日本環境アクセスに勤務する石川さん。新型コロナウイルス感染症の流行下では、100カ所ほどある現業機関に向けてマスクや消毒液などを送る作業の最前線で、機動力抜群の頼もしい活躍を見せたという。

 お世話になった古巣へ恩返しを――そんな思いで東京に帰ってくるまでの10数年、石川さんは九州でさまざまな出会いと経験の日々を送っていた。

「筋を通さなければ」と熊本地震後、単身居残り


2002年5月10日の阪神戦(東京ドーム)で一軍デビュー。1イニング2失点という結果だった


パンチ ご両親との時間を持って、故郷の空気を思う存分吸って、リセットできた。次はどうしたの?

石川 兄が福岡で仕事をしていたので、私も福岡に行ってみました。

パンチ 福岡はいいところだよね。何か仕事のアテがあったということ?

石川 いえ、特にアテはなかったんですけど、それまで野球しかやってこなかったので、いろいろなことをしてみたいと思いまして。ガソリンスタンドでアルバイトをしたり、障がい者支援の仕事をしたりしていました。

パンチ なるほど。福岡には何年くらいいたの?

石川 2、3年です。そのとき熊本でホテルや不動産関係の会社を経営している社長さんとお話をさせていただく機会があって、「ウチの子どもが硬式野球をしたいと言うんで、今度チームを立ち上げるから、野球を教えに来ないか」と誘っていただいました。私のようにどこか体を痛めて、大好きな野球をやめなくてはいけない子を1人でも出さないために、何か力になれればいいかな、と思いました。

パンチ 俺、いつもこの対談で言うんだけど、一生懸命働いていると、必ずそういう人が目の前に現れるんだよ。それで、熊本に移ったの?

石川 はい、熊本で10年近く暮らしました。

パンチ じゃあ、もしかして奥さんは熊本の方?

石川 そうです。熊本で知り合って、結婚しました。

パンチ 少年野球の監督をしながら、どんな仕事をしていたの?

石川 その社長のホテルで管理人をしていました。それから5年ほどで監督を退任し、同時に仕事のほうも青果業に転職しました。

パンチ つまり、八百屋さん?

石川 はい、スーパーの中の1テナントという形なんですが、小売り店で販売をしました。

パンチ いろいろな仕事をしたねえ。何か共通点はあった?

石川 一番にお客様ありき、というところですね。自分がこうしたいから、ではなくお客様が何を求めて、どうしたいのか。それを感じ取って初めて、一つの答えというか、一つの成果物ができるところが共通点でした。

パンチ そういう学びがあったのはよかったね。そこから東京に戻ったきっかけは?

石川 16年の熊本地震のとき、私は店長をさせていただいていたんですが、経営難に陥って、一斉にパートさんのクビを切ることになってしまったんです。その後、ウチの妻の東京転勤が決まりまして……。

パンチ それで一緒に?

石川 いえ、そのときは自分がパートさんのクビを切ったばかりなのに、家族の都合で会社を辞めますというのは筋が違うだろうと思いました。会社も大変な中、人手不足でもあったので、「あと1年頑張ります」と言って結局計2年、単身赴任しました。だから私は去年、こちらに越してきたばかりなんです。

パンチ しかし、人生って面白いね。熊本には奥さんと出会うために呼ばれたのかもしれないね。

石川 野球を教える機会を作っていただいたことと、家族ができたことが熊本での一番の思い出です。

これまでの経験を人のために役立てたい


パンチ それで今の会社に就職したわけだ。

石川 先ほどお話ししたJR東日本の元マネジャーさんに、また相談させていただいたんです。実は前々から「関東に戻ってこい」という話をいただいていたこともありまして。

パンチ ホント、そのときそのとき、きちんとやっていると、声が掛かるものだよね。

石川 はい、人間関係のありがたさをつくづく感じました。そのマネジャーさんには本当にかわいがっていただいています。

パンチ それで、この、JR東日本環境アクセスという会社を紹介されたわけね。ここは主にどんなことをしている会社なの? 俺、JRって聞いても電車とみどりの窓口しか、とっさに思い浮かばないんだけど……。

石川 JR東日本のグループ会社で、駅や駅ビルの清掃をメインの業務にしています。

パンチ 駅の清掃というと、どんな範囲になるの?

石川 主に駅のコンコース、ホーム、トイレの清掃、ゴミの回収、列車内の折り返し清掃です。あとは駅の中の自動販売機やコインロッカーなどの管理もしています。また、品川に資源循環センターという弊社のリサイクル工場があって、駅の中で出たペットボトルや新聞、雑誌などのゴミを再資源化する事業もしています。

パンチ その中で石川君は今、どんな仕事をしているんですか?

石川 本社総務部総務課で仕事をしています。社員の業務に必要な手続きや申請、あるいは彼らの要望を汲んで対応するなど、社内のなんでも屋的な役割ですね。このたび喫煙ルームを撤廃し、リフレッシュルームに改装したんですが、それも総務の仕事でした。あと、私は社長のスケジュール管理もしています。

パンチ それはすごい仕事だね。朝、早いんじゃない?

石川 7時半ぐらいには出社して、社長が出社したところでお茶を出し、1日のスケジュールを確認しています。

パンチ まあ、われわれは小さいころから早起きには慣れているけれども……(笑)。ところでさっき、社員の社員証や名刺も石川君が作ったって広報さんに聞いたんだけど、そうなの? かなりの数でしょう。

石川 社員証は契約社員やパートさんの分も合わせて、約3700人分作りました。

パンチ すごいね。自分の顔写真が付いていて、しかも頭の上に緑で「JR」ってマークが付いているカードを持っていたら、パートさんもやっぱりうれしいんじゃない?

石川 今まで社員と嘱託社員にしか社員証を作っていなかったんです。理由はコスト面と、パートさんはいつ辞めるか分からないからということだったんですが、コストの面は私が作れば節約できる。逆に社員証を持つことで、会社への帰属意識を高めてもらって、「長くこの会社で働きたいな」と思っていただけたらいいんじゃないか、と。

パンチ それはグッドアイデアだったね。社員証が勲章みたいなもの、誇りになるよ。だって、清掃の仕事はJR全体の顔にもなる、一番大切な部分を担ってくれているんだからさ。

石川 そうなんです。本社にいると、なかなか現場の方々と直接の接点を持つことができないんですが、その代わり、現場から出た案件に関しては最優先で対応、サポートするよう心掛けています。現場の方々が汗水流して清掃やゴミの回収などしてくださった仕事の成果として私たちは対価をいただいているわけですから、いかに現場の方が仕事しやすくなるかに常に重きを置いています。それが、ひいてはお客様に気持ちよくJRを利用していただくことにつながりますので。

パンチ 石川君がそうやって頑張ると、JR東日本野球部のOBがプロに行って、また帰ってこられるラインができるじゃない。それが最大の恩返しかもね。将来の夢はなんですか?

石川 いろいろな方々の手助けを得て、こうしてJRに戻していただいたので、今度は自分が若い人たちを少しでも手助けできたらいいなと思っています。といっても私はまだ入社1年目なので、実際は年下でも私より仕事のできる社員ばかりなんですが(笑)。ただ私も他業種での経験はあるので、その経験から何か彼らの役に立つことがあればいいな、と思います。

パンチの取材後記


「野球で出会ったすべての方々が、自分の39年間の財産になっている。だから、野球がなかったら今どういう自分になっていたか、想像もできません」「遠回りをしたかもしれないけど、いろんな経験をできたのはありがたいことだと思っています」と語ってくれた、石川君。

「人生に無駄な時間はない」という言葉があるけれども、今の石川君は、まさにそう。キラキラした思い出も、辛かった思い出も、すべて自分の糧にしてハツラツとしている石川君の姿を見て、あの言葉は本当なんだなとあらためて思いました。石川君が頑張れば、社会人、プロの後輩が野球を引退した後の頑丈な“レール”ができる。ぜひ、みんなを導く頼もしい人生の先輩になってください。

●石川雅実(いしかわ・まさみ)
1981年3月28日生まれ、群馬県出身。藤岡高からJR東日本に進み、01年都市対抗に出場。その秋、ドラフト4巡目で巨人に入団。背番号36を背負い、5月10日の阪神戦(東京ドーム)で一軍初登板を果たすが、その試合を含めて出場2試合のみで、03年限りで退団。04年は台湾・統一ライオンズでプレー。現役引退後は熊本で勤務し、19年から株式会社東日本環境アクセス(現・株式会社JR東日本環境アクセス)に転職。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=山口高明
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