3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 近鉄・豊田泰光コーチは1年限り
今回は『1972年11月6日号』。定価は100円。
1972年10月18日午後、
ロッテ製菓・重光武雄社長が、
「大沢監督を白紙にして目下検討中」と語り、シーズン終盤戦の更迭発言を再度強調した。
大沢啓二監督は
濃人渉監督のあとを受け、71年途中ロッテ監督となり、8月には異例の5年契約を結んだが、重光社長はこの年の9月になって、
「プロ野球経営を引き継いだ以上は、私にも責任がある(ロッテの前身・大毎に資金援助し、ネーミングライツ的に球団名がロッテに。そのあと大映の経営からの撤退で本格的に球団経営に乗り出す)。途中で放り出すようなことはしないが、年間3億円もの赤字経営を続けることを黙認もできない」
と発言。加えて大沢監督の更迭をにおわせた。
このときは中村長芳オーナーとの話し合いで、一応、「大沢監督で来季も臨む」となったが、シーズンを5位で終わり、観客動員が32パーセント減という数字を前に、「大沢監督のままで改善できるとは思えない。このままではロッテ製菓の大きなイメージダウンにつながる」と会社の役員から声が上がり、今回の発言になった。
この際、中村オーナーのロッテ本社側への反発的な言動も批判され、重光社長から注意を受けたようだ。
大沢監督は翌季の指揮に意欲を燃やし、「トレードはやる。投手力補強を主体にやるつもりだ」と発言していたが、ロッテ内ではすでに400勝投手で評論家・
金田正一の招へいで一本化していた。金田は重光社長が経営する『東京タイムズ』と契約しており、自身の会社はロッテ製菓から資金援助してもらっていた。
近鉄では鳴り物入りで71年暮れから打撃コーチとなった元西鉄ほか
豊田泰光の退団が濃厚となっていた。
もともと毒舌で知られた人だが、要は口が災いというやつだった。
選手の前で監督批判を平気でし、エースの
鈴木啓示に「お前は20勝投手じゃない、もっと上位チームに勝ってみろ」と言ったり、KOされた投手に「土下座して謝れ」と言ったりで選手、監督との確執が深まっていたという。
もちろん、奮起をうながすための言葉だったとは思うが、相手がいい気持ちになるわけもなく、打線も振るわずで追い詰められたようだ。
西鉄に移籍した大打者・
榎本喜八の退団も決まった。
チームの全日程終了後、夫人を連れて球団事務所に現れ、自分から退団を申し出た。「もう歳だしね。体力的に限界ですよ」とあっさり。青木球団社長も引き止めはしなかった。
かつての監督、濃人は、
「エノはマジメ過ぎるんだ。野球以外のことは考えないので誤解を招くことがある。いろいろなことがある西鉄では向かなかったのかもしれない」
と話していた。
当初は若い選手が多いチームのために役立ちたいと思ったのだろう。投手の
東尾修が「一塁にエノさんがいるとき、エノさんの頑張ろうという声に支えられた」と言うように若手に声をかけることも多かった。
だが、終盤はどこか捨て鉢にも見え、記者たちの質問を無視することも多かった。
身売り、解体など球団の経営難が言われる中、
稲尾和久監督が外国人選手獲得に熱心に動いている話も耳に入っていた。高給取りで故障が多い榎本がはじき出されるのは確実とも言われ、繊細な榎本は、たぶん嫌気がさし、先手を打って自分から退団を言ったのだろう。
記事の見出しは、
「揺れる西鉄にあいそつかした真面目人間榎本の退団」だった。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM