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プロ野球回顧録

「革命を起こそう!」練習生からはい上がり日本初の大型スイッチヒッターとなった松永浩美【プロ野球回顧録】

 

住友コーチの口説き文句


左右両打席から時に長打を放った松永


 1981年5月10日、西宮球場の近鉄戦で一軍デビューした松永浩美。この試合でのプロ初安打が勝利打点となり、インタビューも受けた。ロッカールームに戻る途中で、試合を見に来ていた二軍コーチの住友平に会うと「マツ、おめでとう」と下を向いたまま、握手をしてきた。

「どうしたんだと思ったら、ポトンと大粒の涙。そのとき、ああ頑張って良かったと思いました。僕が結果を出したことで、こんなに喜んでくれる人がいるんだって。その後、いつも思っていたのは、選手には自分のために一生懸命頑張ってくれる人に報いる義務があるということです」

 苦労を重ね、はい上がった男だった。小倉工高を中退し、78年に練習生として阪急に入団。1年間は背番号のない練習生だった。いつもだれよりも早くグラウンドに来て、ティーバッティングで汗を流した。練習熱心で知られた先輩の福本豊が「あいつの努力に比べたら僕は子どもですよ」と振り返るすさまじさだった。

 翌79年から支配下登録となり、オフには松永の打撃センスに注目した住友コーチにスイッチヒッター転向を勧められた。経験のない左打ちに不安の色を隠せない松永に対し、住友はこう口説いたという。

「日本のスイッチは、ちょこんと当てて足を生かすようなバッターばかりで面白くない。お前が変えてみないか。(南海監督時代の)野村克也さんが、江夏豊を同じ言葉で抑えに転向させたけど、お前もメジャー選手のように、左でも右でもホームランを打てるような選手になって、スイッチの革命を起こそう!」

 81年には、練習生時代の監督でもあった上田利治が監督復帰。名前を知っているはずなのに、しばらくは「アンタ」としか呼ばれなかった。

「上田さんは若いヤツはみんなアンタだった。よく俺たち“アンタ軍団”かって言っていた(笑)。要は名前で呼んでもらえるような選手になりなさいという教育だったんですね」

 しょっちゅう怒られた。今日は代打はないと思い、スパイクを履いていなかったときに「マツ、お前行け!」と言われ、そこで履き替えようとしたら、「遅い。もういい」と言われたこともある。

「試合の流れを読めということだったと思う。上田さんの言葉は、みんな後になって、なるほどと思うものばかりだった」

 82年には島谷金二を押しのけ、サードのレギュラーに。だが、1年のペース配分が分からず、球宴までは良かったが夏場に急降下。

「すべてが悪循環。考え過ぎ、練習し過ぎ。睡眠不足もあってメシも食べられない。疲労がたまるとこんなに力が出ないのかと思った」

首位打者を逃した無念


 以後、年々力をつけ、85年には打率.320、26本塁打、38盗塁でトリプル3に近付き、初の盗塁王を獲得した。松永が生意気、ビッグマウスと言われ始めたのも、このころだ。

「生意気は生意気かもしれないけど、まともにしゃべると阪急は記事にしてくれないんですよ。地元の福岡でも記事になるのは面白おかしく言わないと。だから自分をつくったんです。マスコミがこうだと思っているのに合わせたんですね」

 88年にはロッテ高沢秀昭と首位打者を争い、最後が直接対決。しかし、2打席連続安打の後、日本記録の11打席連続四球。最後は届かぬ球にバットを投げて三振となり、あと一歩で届かなかった。だが、悔しかったのではと聞くと「そうでもない。あれは歩かされて当たり前でしょう」と淡々と振り返る。

 それ以上に悔しいというのが、オリックス1年目の89年だ。8月まで絶好調で首位打者をつかんだかに思えたが、9月に一気に落ちた。状態が悪く、休みたかったというが、優勝争いをしていたチーム事情がそれを許さなかったこともある。

「1回、首位打者を取っていたら、取り方が分かって何度もいけたと思う。そういう紙一重はありますね」

 その後も中心打者として活躍し、82年に続く2度目のサイクルヒットをマークした91年には、規定打席ギリギリだったロッテ・平井光親に、.0004差の2位となった。

阪神では背番号「02」も着けた


 93年トレードで阪神へ。故障で80試合の出場に終わったが、背番号2から途中で02に変え、メジャーでも例がない3試合連続初回先頭打者ホームランを放つなど印象的な活躍をした。しかし、そのオフ、できたばかりのFA制度で地元のダイエーに。「たった1年で」と阪神ファンの怒りを買い、大騒動となる。

最後はダイエーで4年間、プレーした


 ダイエーでは1年目こそ打率.314を残したが、あとは失速。97年限りで退団した。その後、MLBアスレチックスのテストを受け、不合格となったが「メジャーにあこがれがあったわけじゃない。ダイエーに引退してくれと言われたとき、自分の最後のヒットを覚えていなかった。それで引退試合の代わりにメジャーへの橋渡しを頼んだんです」と語る。

 1試合での左右打席での本塁打6回は当時の日本最多。妥協せず、人にこびず、古き良きパ・リーグの選手たちの矜持を最後まで持ち続けた“ラスト・サムライ”だった。

写真=BBM

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