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プロ野球はみだし録

ヤクルトと近鉄、2人の“初優勝請負人”。1人は“マニエルのおまけ”と揶揄されながらも……【プロ野球はみだし録】

 

主砲とバイプレーヤー


近鉄でも強打を発揮して優勝に貢献したマニエル


 プロ野球が現在の2リーグ制となったのは1950年のこと。このとき球団が急増し、合併や消滅を繰り返しながら現在の12球団に落ち着いていくのだが、その中でも特に優勝と縁がなかったのが、セ・リーグはヤクルト、パ・リーグは近鉄だった。ともに2リーグ分立のタイミングでプロ野球に参加した“同期生”。国鉄として参加したヤクルトの初優勝は78年、近鉄が翌79年で、これで当時の12球団すべてが優勝を経験したことになった。

 そんな“リーグで最後に初優勝を飾ったチーム”の両方に在籍していた選手が2人いる。1人は両チームで主砲を担った“赤鬼”マニエルだ。76年にヤクルト入団。この1年目は11本塁打に終わったが、2年目の77年に42本塁打を放つと、迎えた78年には39本塁打、103打点で悲願に大きく貢献する。だが、守備の不安もあってオフに放出。移籍したのが近鉄だった。新天地では西本幸雄監督とも気が合い、指名打者制もあって守備からも解放されて大爆発。死球でアゴを骨折するアクシデントも、29試合の欠場のみでフェースギアを着けて復帰、最終的には37本塁打で本塁打王、MVPに。翌80年には48本塁打、129打点で本塁打王、打点王の打撃2冠でリーグ連覇の立役者となっている。

 このマニエルほどの派手さはなかったが、いぶし銀のプレーで両チームの初優勝を支えたのが、もう1人の男。永尾泰憲だった。ドラフト1位で73年にヤクルト入団。77年に正二塁手となるも、翌78年は5月から遊撃に回り、6月からバックアップが多くなったものの、阪急との日本シリーズでは第4戦で代打として登場、反撃の火蓋を切る内野安打を放つなど日本一に貢献する。近鉄では“マニエルのおまけ”と揶揄されながらも開幕から遊撃、二塁、三塁とポジションを変えながら120試合に出場、西本監督の指導もあって打撃も向上して、規定打席には届かなかったが打率.310をマークしている。

近鉄でもいぶし銀のプレーを見せた永尾


 2チームで“初優勝請負人”となった2人だが、マニエルは80年オフにヤクルト復帰、永尾も翌81年オフに阪神へ。マニエルは結果を残せず1年で退団したが、永尾の“優勝物語”は終わっていなかった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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