3年前に創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 希代のロマンチスト江夏
今回は『1973年2月5日号』。定価は100円。
個性派が多い昭和の野球界でも阪神・江夏豊は、また違う場所にいたような気がする。
巨人・
長嶋茂雄という選手が個人的には大好きだと言うが、球場に来れば、顔を見ても口をきくことは絶対にないし、試合中なら親の仇のようににらみつける。
もしかしたら江夏は、侍が敵に相対するくらいの覚悟でいたのかもしれない。
その江夏が1972年シーズン暮れ、オジキと慕う
金田正泰新監督に、
「どうだ、一度禅寺にでもこもってみるか」
と声を掛けられた。
「禅寺ですか。いいですね、行きましょう」
江夏は即答し、記者に理由を聞かれ、「野次馬根性がたぶんにあるんですよ」と照れて笑う。
酒はあまり飲まないが、遊びは麻雀、競馬もなんでもこいだった。
ただ、一方で読書が好きで山本周五郎や司馬遼太郎のファン。骨っぽくも叙情的、情熱的な男の世界が胸を揺さぶるのだろう。
吉川英治の小説「宮本武蔵」も好きで、五輪の書の中の、
「神を頼るべからず、敬うべし」
という一文も好きだというから、禅の世界にも興味があったのかもしれない。
江夏を誘った理由について金田は、
「野球界という狭い世界の中で生きるよりは、別の世界の別の人たちの話を聞くことも精神面の充実のためには役に立つ。私は、なんとか江夏にその機会を与えたかったんだ」
と話していた。
話が飛ぶが、参禅が終わったあとの江夏の第一声は、
「苦しかった」だった。
毎日、午前4時半に起床。座禅もそうだが、一汁一菜の粗食もきつかっただろう。体重も目に見えて減った。ただ、「阪神・江夏」ではなく、1人の若者として扱われ、時に怒られる日々は意外と楽しかったという。
それでも、すべての日程を終えたあと、参禅で何を得たかの質問には、
「何もない」と答えた。
「何かをつかもうと思って参禅すること自体、向こうの人たちにとっては冗談じゃないと言われるでしょう。道というものは、そんな底の浅いものではない。俺は何も得たとは思っていない。言えることは、それが俺の人生にとって貴重な体験だったということ」
さらに、こうも加えた。
「参禅したからと言って優等生のかみしもを着るわけではない。参禅は最後までやった。同じように、俺には阪神の投手としてやらなければならないことが山ほどある。それも最後までやり遂げなければならないということです。
人は人。それでいい。俺は日本一の投手として、やることはやらねばならない」
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM