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平成助っ人賛歌

特技は無断欠勤と行方不明? 初打席満塁弾デビューの“超問題児”ミッチェルとは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

メジャー通算220発の大砲


ダイエー・ミッチェル


 1995年春、近鉄・野茂英雄はヒール(悪役)になった。

 前年は右肩痛で自身ワーストの8勝に終わり、三度目の契約交渉の席となった95年1月9日、記者会見で野茂本人が大リーグ移籍の意志を表明したのだ。当初、マスコミの反応は冷たいものだった。「ワガママ大モメ渡米」なんて表現はまだマシで、『週刊ポスト』95年2月10日号では近鉄の鈴木啓示監督が登場。怒れる300勝投手は「世の中、そんなに甘くないやろ。自分の思うようにならんのが人生や。そんな簡単にメジャーでは通用せんのとちがうか。夢も結構やが、自分の力というのもわかっとらんといかん。自己満足、ここに極まれりやで。もう(ウンザリしたように)アイツの話はカンベンしてえな」なんて不快感を露わに。しかし、こういった論調はシーズンが始まるとトルネード旋風に吹き飛ばされる。

 背番号16はドジャース打線の援護に恵まれず初勝利まで1カ月かかったが、6月は連続完封を含む6連勝。旅行代理店の現地ツアーは野茂登板予定の試合チケットをつけたら前年より集客10倍増。MLB衛星放送の独占中継権を持つNHKの視聴者センターには問い合わせが殺到した。7月に日本人選手初のオールスター出場を果たすと、NOMOフィーバーはさらに加熱する。球界のルールを破った無法者と叩かれた男は、わずか数カ月で“歴史を変えた日本代表投手”扱いされるようになっていた。

 さて、嵐のようにトルネードが去った日本球界には、入れ替わりでひとりの超大物大リーガーが来日していた。ケビン・ミッチェルである。そう、あのメジャーでも、フダつきのワルとして知られる男がダイエーホークスへ入団するというのだ。直後の『週刊ベースボール』95年3月20日号では、「ダイエー入りの超大物ケビン・ミッチェルの恐るべき『素性』日本球界を震撼させる史上最強の『脅威』の正体」という緊張感溢れるリポートが掲載されている。

 彼の特技は「無断欠勤」と「行方不明」だ。って、それもう野球以前に社会人失格なんじゃ……というのは置いといて、89年のサンフランシスコ・ジャイアンツ時代に47本塁打、125打点の二冠でナ・リーグMVPに輝いたメジャー通算220発の大砲は、圧倒的な打撃センスを持ちながらトラブルのデパートと呼ばれていた。監督との殴り合い、度重なる寝坊、仮病に泥酔、練習ズル休み、記者会見ドタキャン、恋人への暴行疑惑まで。ジャイアンツ時代のアル・ローゼンGMはそんな問題児をこう形容する。

「(トラブルが)付いて回るんじゃない。彼自身がトラブルなんだ」

衝撃の日本デビュー戦


 サンディエゴのスラム街に生まれ、家庭の事情から祖母の手で育てられ、非行に走り転校した中学も中退。その後、高校には行かず、地元で草野球をしているところを偶然、メッツのスカウトに発掘され、80年ドラフト外でプロ入り。全盛期の打棒はのちの殿堂入り打者トニー・グウィンでさえ、「インサイドは左翼へ本塁打する。外角の変化球は右翼へシングルを打てる。地球上でミッチェルの打撃に比べられるものはない」とまで絶賛したが、公称は身長180cm、105Kgも、太り過ぎと私生活の乱れもあり毎年のように故障を繰り返した。

 88年右ヒザ手術、90年右手首手術、91年ヒザ再手術、92年左足疲労骨折、93年左足骨折と右肩手術、94年も左手首痛と両足太腿痛で戦列を離れた。トラブルメーカーで満身創痍。交友関係にも問題あり。とにかく扱いが難しい選手としてアメリカでは有名だった。それでも、シンシナティ・レッズに所属した94年はストライキでシーズン中断するまで、95試合で打率.326、30本塁打、77打点、OPS1.110という堂々たる成績を残していた。もちろん、まだ大リーグでプレーする自信はあった。だが、MLBは出口の見えないストに突入。そんなタイミングで熱心に誘ってきたのが、満を持して世界の王貞治を新監督に迎えたダイエーというわけだ。獲得のため、人気者のブライアン・トラックスラーを解雇する本気度だった。なお33歳のミッチェルの年俸は、日本人選手トップの落合博満巨人)の3億8000万円を上回る、破格の4億円と報じられた。

 95年3月10日、12球団の助っ人の中で最も遅い来日。その15日後の25日には本拠地・福岡ドームでのオープン戦に初出場する。広島紀藤真琴から2打席目にレフト前へ初安打を放ち、26日の試合では併殺崩しで二塁への激しいスライディングも披露。「シーズン前だし相手にケガをさせてはいけない。シーズンに入ったら、寝てもらうよ」とマイク・タイソンばりのKO宣言だ。35.5インチ(約90センチ)、36オンス(約1200グラム)の長くて重く、グリップが細く芯の部分が太いバットを、周囲50センチの丸太のような腕で器用に使いこなす背番号39。王監督も「よくあんなのが振れるな」と呆れつつ感心した。

来日初打席で満塁弾を放ったミッチェルを迎えるダイエーベンチ


 そして、ミッチェルは衝撃デビューを飾る。4月1日、西武球場での開幕戦。「四番・左翼」で先発出場すると、初回に郭泰源から脅弾をかっ飛ばしたのである。外角のスライダーを左中間スタンドへライナーで運ぶ、日本球界初の開幕戦での初打席満塁本塁打。三塁コーチャーの王監督は満面の笑みのハイタッチで迎えた。翌2日にも6回に小野和義から中越えの特大アーチ。まるでボブ・ホーナーの再来とも言える日本襲来だ。そのインパクトは凄まじく、週べ4月17日号の表紙はミッチェルが単独で飾っている。同僚の秋山幸二は、その迫力をこう証言する。

「打撃練習中に守備についていると、打球がおかしな回転をしている。きっとボールをぶっ潰れるくらい叩いているんだろう。日本人だと下半身も使わないと飛距離が出ないが、あの上半身だから、小さなスイングでも飛ぶ。軸もブレないし、とにかくすごいのひと言ですよ」

 打撃練習のあとは若手選手にまじり散らばったボールを一緒に拾い集め、試合前の守備練習に遊びでショートを守ると、巨体のわりに俊敏な動きを見せ周囲を驚かせた。問題行動もなく、予想外の順調なスタートと思いきや、背番号39は開幕11試合目の4月14日近鉄戦でオーダー表にまで名を連ねながら、プレイボール直前に発熱を訴え欠場する。翌15日の試合ではフライを追った際に「古傷の右ヒザを痛めちまった」と途中交代。やはり、ミッチェルはミッチェルだった。

無断帰国後に再来日したが……


 当初は王監督も「少々素行が悪くてもグラウンドで結果を出せばいい」と大人の対応を見せるも、ミッチェルは5月に入っても微熱やヒザ痛を理由に度々欠場。予想より早く大リーグのストが終わり、朝まで衛星放送の試合中継を見ていて寝不足とも囁かれた。11日の東京移動を前にチームが行った雁の巣での緊急練習も欠席、翌12日からの対日本ハム遠征も右ヒザ痛を理由にキャンセルする。瀬戸山隆三球団代表は、球団事務所へ本人を呼び出し事情聴取したが、所沢遠征中に立川の米軍基地での飲酒を注意されると、ミスタートラブルは「プライベートなことは球団とは関係ない。そんなことを言うなら、アメリカへ送り返してくれ! あとは代理人と話してもらえばいい」なんつってブチギレた。チーム指定の福大病院で2日間に渡りヒザの精密検査をするも異常なし。それでも「球団が態度を改めない限りプレーしない」と逆ギレをかまし、17日付けで出場選手登録を抹消された。彼の復帰の可能性はないと報道陣に語った瀬戸山代表はこう続けた。

「我々、ダイエーグループは投資先を間違ったら、すぐに撤退する。今はそういう作業をしている時です」

『週刊ポスト』の記者がミッチェルを直撃すると、「球団からは何もいってきていないが、オレはダイエーを辞めない。アメリカで治療を受けて、日本でプレーしたいんだ」と不機嫌そうに語るも、24日には球団側が職場放棄を理由に年俸の支払い停止を通告。これを受け、26日にミッチェルは無断帰国してしまう。もはや泥沼である。

7月下旬、福岡の地に戻って来たミッチェルだったが……


 今となっては、背番号39はこの時点で退団したイメージが強いが、実は7月21日に福岡空港に戻ってきた。しかし再来日早々、「長旅で疲れちまった」なんて会見をドタキャン。瀬戸山代表と並んで座る予定の再出発の儀式は企画倒れに終わる。それでも復帰第1戦の7月29日西武戦では5打数4安打の固め打ち。8月8日までに33打数15安打、2本塁打、9打点の活躍で、やはりメジャー時代に年間32敬遠の右打者最多記録を持つ実力はケタ違い……と思いきや、今度は9試合プレーしただけで、8月11日にまたもやヒザの治療を理由に帰国してしまう。結局、あれだけ話題になりながら、わずか37試合で39安打、打率.300、8本塁打、28打点、OPS.920という成績を残し、四番打者の気まぐれに振り回された95年の王ダイエーは5位に沈んだ。

 こうして、「近所の犬が毎朝6時に吠えるから起きてしまう」という謎すぎる言い訳を繰り返した平成助っ人史に残る大物ヒール、ケビン・ミッチェルはカネと共に去ったのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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