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「結束力」で日本代表を金メダルに導いた稲葉篤紀監督は「使われたい先輩」だった

 

他の先輩とは異なるオーラ


金メダルに輝いて胴上げされる日本代表・稲葉監督(写真=Getty Images)


 使われたくない先輩か。使われたい先輩か。大学で2学年上の稲葉篤紀先輩は後者である。

 1993年2月中旬、神奈川県川崎市内にある法大野球部合宿所に入寮した。高校卒業前であるが、すでに入部が決まっている新入生はこのタイミングで合流する。約2カ月の見習い期間は「お客さん扱い」。新2年生から雑用を教わる。入学式が終わると、1年生としての活動が本格化。1階の食堂には2人の1年生が「当番」として待機する。入寮する1年生8人が、ローテーションで回す。当時1台しかなかった外部からの電話番と、先輩からの用件を迅速に対応するのが主な仕事だ。

「当〜番〜!!」と呼ばれると、「はい!!」とすぐさま先輩の部屋へ向かい、依頼を受ける。つまり「使い走り」である。当番2人を使うことができる3、4年生は16人。当然、ピーク時は人手が足りなくなる。そこで、3人目として動くのが1年生マネジャー(筆者)であった。マネジャーは渉外業務ら別の仕事もあり原則、選手からの「使い走り」には応じなくていいというルールがあった。

 しかし、これは、あくまでも建前。実際、当番2人が不在で「当〜番〜!!」と聞こえれば、無視することはできない。3人目としてお使いを担当する日々が約1年間、続いた。

 前置きが長くなった。合宿所で2学年上にいたのが、日本代表・稲葉篤紀監督だった。

 当時から爽やかであり、他の先輩とは異なるオーラを放っていた。偉ぶることはなく、後輩にも優しく接してくれた。

 練習の虫だった。マネジャー室に室内練習場のカギを保管していたのだが、いつも、夕食後は稲葉先輩が取りに来て、汗を流しにいく。消灯の23時近くまで戻ってこないことも、珍しくなかった。純粋に野球と向き合っていた。

 稲葉先輩は理不尽な上下関係を嫌っていた。一方で、後輩をコントロールするのが非常にうまかった。風呂場で会えば、ユニークな話題を披露し、和ませてくれる。マネジャーにもたびたび、買い出しを頼んだ。不思議なことに、稲葉先輩から頼まれても、嫌な思いがしない。自身が牛丼をオーダーすれば、必ず、後輩の分もおごってくれる。気前の良さだけで、片づけることはできない心の温かみ。「使われたい先輩」の一人だったのである。

 すべては人柄である。常日ごろからの言動に責任があるからこそ「この人のためなら」と、すぐに行動に移したくなった。大学4年秋の明治神宮大会後。引っ越しの荷物運びを依頼されたが、車を出して、喜んで手伝った。

試合前に人柄がにじみ出るシーン


東京五輪で金メダルへ導いた日本代表・稲葉篤紀監督は、法大時代から人望が厚かった(写真=BBM)


 大学卒業後は「選手と取材者」、現役引退後は「監督と取材者」という間柄になったが、稲葉先輩のスタンスは変わらない。多くの人とも分け隔てなく、丁寧に接することから、支援者は広がっていったと聞く。何が素晴らしいのかと言えば、気遣いができる。自然と関わる人たちが、応援者になっていくのである。

 NPBでコーチ、監督経験がなかったが、指導者としての資質が備わっていた。日本代表の「結束力」は、稲葉監督が5年間をかけて作り上げた「世界」である。戦うのは選手だが、チーム関係者全員が「稲葉監督のために」と身を粉にして動いていたのは明らかだ。

 試合前のセレモニー。メンバー交換後、稲葉監督は4人の審判員と目を合わせてグータッチしていた。相手チームはもちろんのこと、アンパイアなくして、試合は成立しない。相手へのリスペクト。稲葉監督の人柄がにじみ出ているシーンだった。24人のメンバーは自分のためではなく、チームのために1球に集中。チームスポーツの持つ良さと「感謝の心」を、日本代表に浸透させた。野球・ソフトボール競技は北京五輪以来13年ぶりの開催。野球は正式種目となって以降、初の金メダル獲得となった。稲葉監督が野球の魅力を世界へ発信した功績は大きい。

文=岡本朋祐
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