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昭和助っ人賛歌

期待ハズレの助っ人が毎年シリーズ男に大変身!? ”金髪長髪のヒゲ面”で人気のブコビッチとは?/昭和助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

メジャーで3割をマークした中距離打者


西武・ブコビッチ


「売れに売れましたから、3球団からクレームが入ったんです。でも、我々としても、対応の仕方がわからないわけです。ちょっと(選手の)名前を変えればいいんじゃないか、だけで済んでいた。当時は、のどかだったんでしょうね」

 これは1987年6月発売のファコンソフト『燃えろ!!プロ野球』のプロデューサー関雅行が、後年に雑誌『コンティニュー』Vol.14で語った製作秘話である。燃えプロ発売日には新宿西口ヨドバシカメラに大行列ができ、店員から「なんでこんな数しか出さないんだ!」なんて𠮟られたという。当時の王道『ファミスタ』とはまた違うリアル志向野球ゲームの先駆けとして、大きな注目を集めていたのだ。爆発的に売れすぎて生産が間に合わず、ジャレコ自社ソフトの『妖怪倶楽部』の箱を流用したため、赤と黒のカセットが市場に存在する。伝説のバントホームランから、クロウの乱闘までを再現して約158万本を売った初代燃えプロ。そのゲーム上で名前が長すぎて表示できず、「Vコビ」として登場したのが、当時西武ライオンズのジョージ・ブコビッチである。

 ブコビッチは86年に年俸1億2000万円の好条件で西武入り。メジャー通算27本塁打だったが、84年にはインディアンスで134試合に出場して打率.304をマークした左の中距離打者だ。29歳とまだ若く、外野守備の強肩もブレーブスのデール・マーフィー以上と評された。しかし、来日当初は打球が上がらず、無愛想でマスコミ対応も悪い。“ゴロビッチ”や“笑わん殿下”と揶揄されたが、「インタビューはメジャーにいたころから苦手だったんだ」と意に介さず。高知キャンプ中にホテルのラウンジで、阪急の“野獣”アニマルに遭遇すると、「オレがおごるから、まあ、ここに腰かけて、ビールでも飲めよ」とやや上から目線で誘うも、あっさり断られてしまう。アニマルにも意地があったのだ。メジャーでの実績も日本での年俸も相手が格上、そんなヤツにおめおめとおごってもらうわけにはいかない。それでもブコビッチは「ヤツは派手なアクションをするけど、攻略する方法はあるんだよ。ホームランをかましてやればいい。打たれると、ヤツはカッカする。もう、こっちのものさ」なんて格の違いを強調した。

『西武ライオンズ ファンブック86年版』では、前年40発放った秋山幸二とゴールデンルーキー清原和博が表紙を飾ったが、そのAK砲と並んで「現役大リーガー・ブコビッチのパワーと魅力」特集が組まれるほど新助っ人は期待される。18歳の清原が世間の注目を独占する中、「四番・右翼」で当然のように開幕スタメン出場したのはオープン戦で3試合連続アーチを放った背番号20だった。4月23日現在で打率.385のハイアベレージをマーク。本場仕込みの激しいヘッドスライディングや照明が目に入りやすい西武球場の外野守備でも球際の強さを見せた。だが、皮肉にもあくまで四番の大砲として30発以上を期待する首脳陣と、自身はラインドライブ・ヒッターと認識する本人との野球観にズレがでてきてしまう。開幕間もない『週刊ベースボール』86年5月12日号には、ブコビッチの呆れたようなコメントが掲載されている。

「(4月下旬で2本塁打に)ホームランが少ないって? 狙っていないもん。ヒットを確実に打つよう心掛けているだけさ。それが、ホームランにつながるんだからネ」

 とは言っても、なかなか上がらない打球に森祇晶監督は6月になるとブコビッチに対して、度々送りバントのサインを出すようになる。6月24日の日本ハム戦では助っ人が勝負どころで犠打失敗に終わると、試合後の指揮官はイラついた様子で「ブコビッチのことは、何も言うな!」なんて取材陣を一喝。キャンプ中に二度会食して、「自分のペースで調整していってもらいたい」と大リーガーのプライドを重んじる意向だったはずが、早くも堪忍袋の緒が切れる。就任1年目の森監督にも余裕がなかったのだ。

森監督の辛辣なコメント


 そんな逆風の環境にイラついた助っ人は、近鉄戦で死球を受けて「ガッデム! またかムラターッ!」なんつって激怒しながらマウンドに向かうも、投げていたのは小野和義だった……というなんだかよく分からない人違い事件を起こし、さらには慣れない日本の梅雨にも悩まされた。

「ニッポンの天気はクレージーとしかいいようがないよ。雨が多いとは聞いていたけど、こんなに多いとは想像以上だよ。インディアンス時代、雨で中止になるのは年間、3試合ぐらいしかない。日本のように試合、雨、試合、雨……じゃ調子の整えようがないよ」

 この年の西武は前半戦だけで16試合が雨天中止になっており、まだ日本にドーム球場ができる前の球界のリアルがそこにはあった。「毎年、4、5月はよくないんだ。夏場を見てくれ。オレは夏に強いんだ」とアピールするも、8月以降、プロの水に慣れた清原がホームランを量産し出すと、ブコビッチがニュースになることはほぼなくなった。そして、西武がV2を達成した翌日の10月10日ペナント最終戦。対ロッテのスタメンは初めて「三番秋山・四番清原・五番ブコビッチ」のクリーンアップがお披露目される。

独特のクラウチングスタイルの打撃フォームだったブコビッチ


 121試合、打率.265、18本塁打、67打点。正直、物足りない数字に終わったが、史上初めて8戦までもつれこんだ広島との日本シリーズで、その第8戦の8回表に金石昭人から決勝のタイムリー二塁打を放ったのはブコビッチだった。日本の投手に慣れた来季は相当期待できるんじゃないかと、背番号24に変更して臨んだ翌87年の西武2シーズン目だったが、開幕から調子が上がらず、週べ87年6月1日号には森監督のこんな辛辣なコメントが掲載されている。

「清原が焦って打てなくなったのも、五番のブコビッチがヒドすぎるからや。ま、使うオレが悪いんやけどな。助っ人と思わなければ、腹も立たん。もうブコビッチは使わずに、いるものだけで何とかやっていく。1日でいいからホーナー(ヤクルト)を貸してくれんだろうか」

 確かに5月18日現在、3本塁打、7打点とチャンスにまったく打てていなかったが、ボスにここまで嫌われてしまってはもうお手上げだ。ブコビッチは周囲の日本人選手と交流を図るタイプではなく、一軍の外国人選手は自分と郭泰源だけだったので、英語を話せる同僚もいない(育てる助っ人こと年俸700万円のバークレオは二軍育成中)。一方で野球ファンには知名度と人気のある選手だった。その名前のインパクトに極端なクラウチングスタイルの打撃フォームで、風貌は金髪長髪のヒゲ面。さらにはデーゲームで反射防止の目的から目の下につける“アイブラック”の存在をブコビッチから知った少年ファンは多い。殊勲打を放ってもグラウンド上では笑わない無愛想さも、妙に格好良く感じられたものだ。

日本シリーズで汚名返上の一発


87年、巨人と日本シリーズを戦った。試合前にクロマティ[右]と談笑するブコビッチ


 結局、2年目はチームがV3を達成するも、ブコビッチは打率.244、14本塁打、46打点と前年より成績を落としてしまう。王巨人との日本シリーズでは初戦に四番起用されるも、4打席連続三振と大ブレーキで第2戦はスタメンから外される。これでもう終わりか……誰もがあきらめかけた第3戦、崖っぷちの背番号24は“昭和の怪物”江川卓から、右中間スタンドへ汚名返上の先制ソロアーチを叩き込む。試合前のスタメン五番発表時に、巨人側スタンドから歓声が上がる屈辱に元・大リーガーは燃えた。西武が制した日本シリーズ終了後に電撃引退発表をする江川は、結果的にこの試合が現役最終登板となり、同じくブコビッチにとっても、この一発が日本で放った最後のホームランになった。ペナントで期待ハズレの助っ人は、無類のシリーズ男でもあったのである。

 なお、当時の日本シリーズは全試合デーゲームで開催され、当たり前のようにテレビ視聴率30パーセント超えを記録する“国民的娯楽”だった。「今日の午後の授業は特別に日本シリーズを観まーす」なんて給食の時間に担任の先生が宣言すると、教室は大歓声に包まれる。西武ライオンズが黄金時代を迎えたあの頃、ソフト麺をすすりながら、全国の小中学校で同じようなやり取りが繰り広げられたことだろう。

 秋の日差しに照らされた、視聴覚室のテレビとブコビッチ。

 今思えば、それは80年代のプロ野球を象徴する風景だった。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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