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プロ野球回顧録

30歳で現役引退…全盛期に「メジャーで通用する」と絶賛された天才左腕は

 

代名詞はスローカーブ


90年代に鮮烈な輝きを放った今中


 1990年代は先発投手が中4、5日で登板するのが日常の世界だった。巨人斎藤雅樹桑田真澄中日山本昌、近鉄・野茂英雄西武工藤公康……心身共にタフな投手たちが球界を代表するエースとしてマウンドに立ち続けた。

 上記の4投手に実績では劣るが、エースの称号が似合うクールな「天才投手」がいた。唯一無二の武器がカーブだ。100キロ台のカーブ、80、90キロ台のスローカーブは視界の上から一瞬消えて落ちてくるような独特の軌道で、現役バリバリのメジャー・リーガーだったバーフィールド(当時巨人)も茫然と見送っていた。この遅球が伸びのある直球をさらに速く見せる。今中慎二の凄みは細身の体躯から投げるフォームが直球、カーブでまったく変わらず、制球力が抜群だったことだ。25歳まで積み上げた白星は87勝。「メジャーで通用する」と他球団の首脳陣、メジャー・リーガーたちが太鼓判を押すほどの左腕だった。

 大阪産大高大東校舎(現大阪桐蔭高)で甲子園出場はならなかったが、快速球を武器に高校No.1サウスポーと評価され、中日にドラフト1位で入団。プロ2年目の90年の春季キャンプで、池田英俊投手コーチにフォロースルーなどを指導され、直球の伸びや変化球のキレが増す。同年に初の規定投球回に到達し、6完投で10勝をマークする。翌91年も12勝13敗、防御率2.52。広島佐々岡真司との熾烈な争いで最優秀防御率を惜しくも獲得できなかったが、8完投4完封で193イニングを投げる。

今中のカーブの握り


 代名詞となる縦に大きく割れるスローカーブを習得したのは92年だった。4月に打球が左手首に当たって骨折。リハビリ期間に痛みがないカーブのみで遠投していたところ、コツをつかんでスローカーブを習得した。翌93年は17勝7敗、防御率2.20、247奪三振で最多勝、最多奪三振などに輝き、沢村賞を受賞。リーグトップの14完投で249イニングと投げまくった。94年も2年連続リーグトップの14完投で197イニング。毎年のように200イニング近く投げ続けた。

 当時は「登板過多」という概念がまだ浸透していない時代で、今中はひたすら左腕を振り続けた。95年に15完投で189イニングを投げて12勝を挙げるが、96年に異変が生じる。4年連続開幕投手を務めて14勝をマークしたが、7月に左肩関節周囲炎で登録抹消されている。優勝争いをしているチーム事情もあり、シーズン終盤も左肩の違和感を抱えたまま投げ続けた。

「ただ、悔いはあります」


01年に行われた引退会見にて


 オーバーヒートした体が悲鳴を上げた。97年にオープン戦初登板となった3月のロッテ戦で球速が最高124キロにとどまり、試合後には肩関節周囲炎の再発が判明。8月に一軍に復帰したが2勝に終わる。98年は左肩の状態が回復し、5月16日の横浜戦(ナゴヤドーム)で2勝目を挙げたがこれが現役最後の白星となる。

 リーグ制覇した99年に炎症の原因だった左肩の滑液包を除去、突起骨を3箇所切除する手術を受けたが、直球とカーブの全盛期のキレは最後まで取り戻せなかった。3年連続未勝利に終わった01年限りで引退を決断。プロ8年目までに87勝をマークしたが、その後は故障との闘いで4勝しか積み上げられず、通算233試合登板、91勝69敗5セーブ、防御率3.15で現役生活に幕を下ろした。

 30歳の若さで現役引退。故障がなければ名球会入りも十分に狙える左腕だった。引退会見で「後悔はありません。ただ、悔いはあります」と目を潤ませた。中日を支えたマウンド上での鮮烈な活躍を野球ファンは忘れない。

写真=BBM
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