週刊ベースボールONLINE

背番号物語

【背番号物語】横浜・佐々木主浩&ヤクルト・高津臣吾「#22」佐々木の背で一変した物語。高津監督で新章に?

 

2年目の奇跡?


横浜のクローザーに君臨し、“大魔神”の異名を取った佐々木


 長く「22」は捕手のイメージが強い背番号だった。これを完全に定着させたのは1975年の本塁打王でもある阪神田淵幸一だったが、それ以前にも日本ハムはルーツの東映から捕手の系譜だ。その後も広島では水沼四郎が「22」で黄金時代の礎を築いた。田淵は西武へ移籍してからは指名打者が多くなったものの、変わらず「22」を背負い、田淵が去った阪神でも「22」は木戸克彦関川浩一ら捕手が後継者となっている。関川は外野手に転向して成功したが、強打者で「22」の印象が強い山崎武司も捕手の出身だ。

 こうした傾向が変わり始めたのは1990年代。21世紀に阪神では藤川球児、日本ハムでも建山義紀らリリーバーが継承しているが、その草分け的な存在が佐々木主浩。横浜(現在のDeNA)のクローザーとして38年ぶりリーグ優勝、日本一の立役者となった“大魔神”だ。

「22」へのこだわりでは他の追随を許さない佐々木。ドラフト1位で入団したときのチーム名は大洋だったが、このとき自ら「22」を希望して着用、そして最後まで「22」を背負い続けた。「22」といえば、最近はエンジェルナンバーと言われて縁起がいい数字とされている、という話を聞いたことがある気がするが、そういうことでもないらしい。佐々木は生まれたのが2月22日の2時22分など、もともと「2」という数字と縁が深く、なにかと人生の節目で「2」という数字が登場してきたのだという。

 佐々木はプロ1年目から即戦力となって2勝2セーブ2セーブポイント。そしてブレークは2年目だ。98年の最終回1イニングに君臨する印象が強いが、このときは1イニング限定ではなく、リーグ最多の58試合に登板して6勝17セーブ。規定投球回にも近づき、最優秀防御率のタイトルを目指して「もう少し投げさせてください」と首脳陣に頼むも、認めてもらえなかったという。

 だが、しかし。投球回が117イニングだったことで奇跡(?)が起きる。「2」の縁から解き放たれたような佐々木だったが、最終的に自責点26で終えたことで、防御率2.00。これは四捨五入で2.00になったのではなく、2点ピッタリなのだ。なにか鳥肌が立ってきそうだが、もちろんプロ野球は「2」を目指すものではない。キャリアハイは日本一イヤーの98年で45セーブ。ただ、この98年も22試合連続セーブを決めていて、やはり尋常ならざる縁がありそうだ。佐々木はマリナーズでも「22」を背負い、横浜へ復帰してからも吉見祐治に譲ってもらって「22」にも復帰、そして2年で現役を引退している。

【佐々木主浩】背番号の変遷
#22(大洋・横浜1990〜99、2004〜05)

「22」の監督として迎える22年


高津監督は現役時代と同じ背番号「22」を着けている


 これだけ逸話が多いと佐々木だけの象徴に終わりかねない「22」だが、これを一般的な物語に変換したのは高津臣吾の功績だ(?)。佐々木ほど「22」にまつわる強烈なエピソードは聞こえてこないが、これが普通。佐々木とともに「22」のクローザーとして同じ時期に輝いたことで、「22」の背番号物語はリリーバーを象徴するものに昇華されていった。

 高津は佐々木が2年目のブレークを遂げた1991年にヤクルトへ入団して、やはり1年目から「22」を背負って即戦力となる。2年目までは完投もあった高津だが、3年目の93年からリリーフに回り、黄金時代を象徴する選手の1人に。佐々木と最優秀救援投手の座を争い、92年に佐々木が初の戴冠、ブレーク2年目の94年に高津が初の獲得。佐々木の全盛期といえる97年からの2年間は失速した高津だが、99年には返り咲いて、佐々木がメジャーに去った21世紀にも2001年、03年とタイトルに輝いている。

 高津はプロ野球へ復帰した佐々木と入れ替わるように海を渡り、メジャーでは「10」、ヤクルトでプロ野球に復帰したときも「11」でプレーしたが、NPBラストイヤーの07年は「22」。20年に監督となり、ふたたび「22」を背負い、2年目の21年にリーグ優勝。そして迎えた22年。「22」に新しい物語が始まる予感もある。

【高津臣吾】背番号の変遷
#22(ヤクルト1991〜2003)
#11(ヤクルト2006)
#22(ヤクルト2007)

文=犬企画マンホール 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング