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プロ野球回顧録

暗黒時代の阪神で孤軍奮闘 入団1年目で開幕投手務めた「助っ人右腕」は

 

他球団なら15勝以上と周囲の声


性格も明るく陽気だったキーオ


 暗黒時代でなければ、もっと白星を積み上げていたし評価も高めていただろう。87年に阪神に入団し、4年間で通算45勝をマーク。チームは6、6、5、6位と低迷期だったが、先発ローテーションの柱でフル稼働したマット・キーオだ。

 キーオは日本と不思議な縁で結ばれている。父は1968年に南海でプレーした内野手のマーティ・キーオ。キーオは当時中学生で神戸に1年間暮らしている。投手としての実力は本物だった。メジャーでは80年にアスレチックスで16勝を挙げるなど3年連続2ケタ勝利を含む通算58勝をマーク。31歳のときに阪神入団を決意する。期待値は高く、入団1年目の外国人投手が開幕投手を務めるのは日本プロ野球で史上初の出来事だった。

 右打者が思わずのけぞる軌道のナックルカーブなど多彩な変化球を武器に、走者を出しても崩れない。老獪な投球で試合をきっちり作る。スタミナも十分でタフだった。87年は11勝14敗、防御率3.80。チームは85年のリーグ優勝から一転、41勝83敗6分の断トツ最下位と散々な状況だったがキーオは奮闘した。

 翌88年も12勝12敗、防御率2.76。この年も首位・中日と29.5ゲーム差をつけられて最下位を独走する中、ひたすら腕を振り続けた。打線の援護がなく白星がつかなかった登板も多かったことから、「他球団だったら15勝を軽く超えている」と同情されるほどだった。89年は自己最多の201イニングを投げ、15勝9敗、防御率3.72。最下位から脱出したが5位と低迷している状況は変わらない。リーグワーストのチーム防御率4.15と苦しい台所事情の中、キーオは投げまくり、8完投にリーグ最多の無四死球試合4と安定感は際立っていた。

試合をきっちりつくり、スタミナも十分だった


 来日4年目の90年は故障の影響で精彩を欠き、7勝にとどまるとオフに戦力構想から外れた。在籍4年間で107試合登板、45勝44敗、防御率3.73。阪神退団後はメジャー復帰を目指したが、オープン戦で頭に打球を受け、頭部の血の塊を取り除く緊急手術のために出遅れた。本来のパフォーマンスを取り戻せず、その目標は叶わなかった。

“魔球”ナックルカーブのすごさ


 悲報が舞い込んできたのは20年5月2日。アスレチックがキーオの死去を発表した。享年64歳の若さだった。

 この訃報を受け、現役時代に共にプレーした野球評論家の岡田彰布は週刊ベースボールのコラムで以下のように綴っている。

「投手陣が崩壊し、打撃陣も極端に打てなくなった。最下位も仕方なし。そんなチーム事情の中、キーオはさすがメジャー・リーガーという光る投球を見せていた。特に彼には“魔球”があった。そう、ナックルカーブという球種やね。当時、日本の投手で、あそこまで変化するボールを投げるのはいなかった。オレは内野を守り、ナックルカーブの威力を間近で見てきたもんね。特に右バッターには効果的やった。体のほうに向かって行って、そこから急激に角度を変えミットに収まる。右バッターは当たる……と思って、のけぞるわけよ。中にはシリもちをつくバッターが多くいた。それほどの変化やったわ。この魔球を操り、4年間で45勝。コンスタントにシーズン2ケタ勝利をマークし、エースとして活躍してくれた」

「人柄もよかったわ。陽気なアメリカン、という感じで、イタズラ好き。チームメートにちょっかいを出しては大笑いしているような明るさがあり、みんなに好かれていた。父親が日本でプレーした経験(南海ホークス)があったこともあり、日本の文化や習慣にもなじんでいた。日本人のことをよく理解していたし、それも4年間の成績に反映されていたんやろな。バッキー、メッセンジャーとまではいかなくても、阪神の外国人投手の歴史に名を刻んだ名ピッチャーだったのは間違いない。64歳やったのか……。まだまだ若いのに……と残念でならない。ホンマ、安らかに、というしかない」

 阪神のエースとして右腕を振り続けた助っ人右腕を、野球ファンは忘れない。

写真=BBM
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