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逆転野球人生

「近鉄最後のV」に貢献! “二軍の帝王”吉岡雄二が“長嶋巨人”から放出されて覚醒した理由【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

甲子園の優勝投手、プロ3年目の秋に打者転向


巨人で和製大砲として期待されていた吉岡


 人生はふとしたきっかけで変わる。そう、トレードは野球人生をリスタートするチャンスでもある。

 一昔前は、“栄転”というより“左遷”のイメージが強かった移籍通告。それでも新しい環境で心機一転、己の運命を切り開いた選手もいる。40代以上には甲子園V投手、若い世代には『とんねるずのスポーツ王』の「リアル野球BAN」で現役選手顔負けの打球をかっ飛ばす白髪のおじさんとして知られる、あのスラッガーもそうだった。

 吉岡雄二もまたトレードによって、大きく運命を変えた選手のひとりである。帝京高校を夏の甲子園で優勝に導いた四番エースは、投手だけでなく高校通算51本塁打を放った大型野手としても高い評価を受けていた。89年ドラフトで巨人から3位指名を受け、当初は投手でスタートするも入団早々右肩を故障して2年間はリハビリ生活。復帰後は再び投手を続けるが、プロ3年目の92年秋に打者転向へ。

 身長189cmの和製大砲は、「右の吉岡、左の松井秀喜」と元甲子園のヒーローコンビで復帰した長嶋茂雄監督からも期待される。できたばかりのFA制度で一塁レギュラーの駒田徳広が横浜へ移籍した93年オフには、その背番号10が吉岡に継承されるほどだった。野球評論家の田尾安志は『週刊現代』94年1月15日・23日号の「これがイチ推し!94年のホープたち」企画で、新10番をパワープッシュ。秋季キャンプでテイクバックの際にグッと後ろに体重が残っているスイングを見て、「松井と比較しても、スイングだけ見れば、吉岡のほうがよかった」なんて絶賛。「3割30本は打てる。首脳陣も、フルシーズン彼を使ってほしい」と、前年10試合で33打席しか与えられなかった逸材の起用法に苦言を呈した。

 週べ94年4月11日号でも、「チーム若返りのカギを握る、新和製大砲、吉岡雄二のザ・チャレンジ・ロード94」という特集が掲載されている。オープン戦を終えて帰京するJR水戸駅の電車を待つホーム上で、中畑清打撃コーチとバット片手にフォームチェック。いやそれ他の乗客に迷惑なんじゃ……と突っ込む間もなく、海外自主トレに同行した原辰徳の弟子からライバルへ昇格と記事では煽る。長嶋監督も「いいねえ、吉岡のような顔はサムライ顔っていうんですよ。幕末の志士・高杉晋作のような顔をしているでしょ。こういう顔をしている人は、いかにも相手に対してスキを与えないんですよね」なんて例によってなんだかよく分からないエール。3月24日に二軍落ちするが、2本塁打、5打点はオープン戦チーム二冠だった。

“二軍の帝王”も出場機会に恵まれず……


 その94年は一軍出場こそなかったが、イースタン・リーグで22本塁打、72打点と二冠獲得(イースタンのシーズン最多安打記録も更新)。ちなみにこの90年代中盤の巨人二軍成績を確認すると、完全に吉岡雄二と同期入団の89年ドラフト1位大森剛の“YO砲”時代である。92年には大森が当時イースタン新記録となる27本塁打、69打点で二冠獲得。翌93年も18本塁打で2年連続のキングに輝く。そして、94年は前述の通り吉岡が二冠。すると負けじと96年は大森が25本塁打で3度目のイースタン本塁打王、63打点で2度目の打点王と二冠奪取。二軍では敵なしの最強コンビだったが、当時の巨人は落合博満広沢克己ジャック・ハウエルと終わりなき大型補強時代へ突入。一塁と三塁候補は多く、まだ原辰徳や岡崎郁の生え抜きベテラン陣も在籍しており、若手が食い込む余地はなかった。

 95年に原が引退、ハウエルもシーズン途中退団、自身はプロ初アーチを含む4本塁打を放ちようやくチャンスが……と思いきや、翌96年には三塁に新外国人のジェフ・マントを補強。さらに長嶋監督は感情を表に出す元気な選手を好む傾向があり、吉岡も寡黙に黙々とプレーするタイプで、それだけでアピール不足と見られてしまう悪循環だ。週べ増刊号の落語家ヨネスケとのヤングG座談会でも「吉岡選手はもうちょっとファイトを出してもいいんじゃないかな。いわれない?」なんて突っ込まれ、「いわれます(笑)」と苦笑い。

 それでも、96年開幕直後にマントが打撃不振で退団。ついに自分の出番かと意気込んで東京ドームへ行くと、三塁スタメンは二軍から上がってきたばかりの長嶋一茂だった。オープン戦から好調でチャンスを待ち続けたのにこれが現実か……。当時の心境を『元・巨人―ジャイアンツを去るということ』(矢崎良一/廣済堂出版)の中で吉岡はこう語る。

「開幕から一軍の試合に出られないのがすごく歯がゆかった。チーム事情とかいろいろありますから、こんなこと言っちゃいけないけど、せめてマントに見切りをつけた段階で、先発で少しでも使ってもらいたかった。結果を出せるだけのコンディションではあったと思うんです。代打すらなかったんですからね。それでベンチを温めているうちに、調子よかったころの感覚がだんだんと麻痺していったんです」

石毛[左]と共に近鉄に移籍し、97年からパ・リーグでプレー[中央は佐々木監督]


 気が付けば、7年目の25歳。秋季キャンプのメンバーからも漏れ、またFAで西武から清原和博が移籍してくることも決定的だった。俺はもうこのチームに必要とされていないのか? そんなタイミングで近鉄の主砲・石井浩郎が、契約更改で60%の大幅ダウンを突き付けられ球団と対立。左手首の治療費を巡り両者の関係は修復不能になり、涙ながらに石井は近鉄との決別を決意する。横浜や西武など計6球団がトレードでの獲得に動くも、最終的に石毛博史と吉岡を交換要員にリストアップした巨人が争奪戦を制する。

 すでにこの一連の経過は事前にスポーツ各紙で大きく報じられており、公開トレードのような状態だった。最多セーブの実績を持つ石毛は、移籍通告の席に球団代表がいなかったことに腹を立て返事を保留したが、吉岡は即答でトレードを了承。不安はもちろんある。東京生まれで、巨人ブランドの威光も今よりもずっと強かった90年代、パ・リーグへの移籍は都落ちのような捉え方もされたが、25歳の伸び悩む若手にとっては環境を変えるチャンスだった。しかも97年から近鉄の新本拠地は完成したばかりの大阪ドームへ。新しいチームと新しい球場でプロ8年目のシーズンを迎える。幸か不幸か、吉岡にはすがる過去も実績もなかった。何者でもない若者は、今を生きるしかなかったのだ。

新天地での覚醒、近鉄最後のVに貢献


「僕自身は、今は野球や自分のことで精一杯なんで、巨人に対してどうとか、そういうことは全く考えていません。ただ、近鉄に来て思うのは、メディアの目もファンの目もあまり気にせずいられるし、その点、すごく自由にやれていますね。水が合うのかもしれません」

 週ベ97年4月7日号で巨人OB岡崎郁からインタビューを受け、新しい環境について前向きにそう語った。佐々木恭介監督は「石井のトレード話がなくてもウチは欲しくて手を挙げていた選手。それだけに出てきてほしいんや」と大きな期待をかけ、吉岡も慣れない左翼守備にも挑戦してそれに応える。移籍2年目の98年には自己最多の13本塁打、区切りのプロ10年目の99年には一塁レギュラーを獲得。初の規定打席に到達して打率.276、13本塁打、57打点、12盗塁を記録する。巨人二軍時代にクリーンアップを組んだ大森剛も近鉄に移籍してきたが、古巣を引きずり新天地に馴染めず、わずか2年で引退。トレードはリスタートであり、ときにラストチャンスでもある。対照的に大阪で自分の居場所を見つけた吉岡は、01年の近鉄バファローズ最後の優勝に大きく貢献してみせる。

“いてまえ打線”はタフィ・ローズ中村紀洋のふたりで計101発、263打点の三・四番コンビが目立ったが、それを後方から支えたのは勝負強い五番の礒部公一と、打率.265、26本塁打、85打点の恐怖の六番打者吉岡だった。そんな磯部と吉岡を梨田昌孝監督は「(優勝の)わき役じゃない。準主役だよ。助演男優賞ってあるでしょう」と称えた。移籍時に1300万円だった年俸は1億円を突破。もう元・巨人ではなく、立派に近鉄のレギュラーを張る背番号3だ。

05年から08年まで楽天プレーした


 04年オープン戦でアキレス腱断裂の大怪我を負うが、05年からは新球団・楽天で見事カムバック。ちなみに楽天球団初のサヨナラ安打は吉岡が放っている。08年限りでの退団後は、メキシカン・リーグでもプレーした。

 巨人時代、感情を表に出せと周囲から苦言を呈されていた男は、負けん気と情熱を内に秘め30代後半になっても貪欲に野球に食らいついた。彼は25歳でトレードされてから、過去を振り返るのではなく、未来を見続けたのだ。なお、吉岡雄二のNPB通算131本塁打中126本は、近鉄と楽天で記録したものである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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