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パンチ佐藤の漢の背中!

「“地球人”を輩出したい」と燃える丸山一仁氏が語る有藤監督、金田監督、「10.19」などロッテの思い出/パンチ佐藤の漢の背中!

 

野球以外の仕事で頑張っている元プロ野球選手をパンチ佐藤さんが訪ねる好評連載、今回のゲストは元ロッテ内野手で、現在は(株)ハル・ソレイユの顧問をしながら2022年のスポーツコミュニティースクール開校を目指している丸山一仁さんです。球団職員を定年まで務め上げても元気に次の目標へと進む丸山さんの姿に、パンチさんは大いに刺激されました。
※『ベースボールマガジン』2022年1月号より転載

「東大に入るより難しいから」と両親も快諾したプロ入団


パンチ佐藤氏[左]、丸山氏


 丸山さんが初めてのちの本拠地・川崎球場を訪れたのは1982年。日米大学野球を戦う日本代表メンバーの一員として、壮行試合に出場したのだ。中に入って、プロ野球のスタジアムとは思えない古さと汚さに驚いた。正直、「ここにだけは入りたくないな」と思ったと振り返る。

 しかし同年11月、そのロッテがドラフト5位指名。それから丸山さんの37年に及ぶ“ロッテ一筋”の人生が始まった。

パンチ (近畿)大学時代の志望は、プロ1本だったんですか?

丸山 いえ、もともと大学に行ったきっかけも、親父に「将来は安定した職業に就け」と言われたから。大学卒業のときは、社会人野球のチームからも声が掛かっていました。

パンチ 万々歳だったんですね。そんな中でプロ入りを決めたとき、ご両親はなんておっしゃいましたか。

丸山 「東大に入るより難しいことをしたんだから、大したもんだ」と快諾してくれました。

パンチ 実際入団して、レギュラー取りの可能性はどんなふうに感じましたか?

丸山 ちょうどポジションが空いたときだったんです。セカンドの落合(博満)さんがサードに行って、サードの有藤(道世)さんがレフトに行く。セカンドを、僕より1年先に入った西村(徳文)さんと競い合う形になりました。足は全く叶わないけれども、守備と打撃ならなんとかなるかなと思っていました。

パンチ 監督はどなたと一緒にやりました?

丸山 1年目が山本一義さんで、2年目から3年間が稲尾和久さん、そこからの3年間が有藤さんで終わりました。

パンチ それぞれの監督から学んだのは、どんなところでしたか?

丸山 山本さんは「自分に厳しくないとプロでは通用しない」と。あと、「やられたらやり返せ」という、根性野球のようなところがありましたね。稲尾さんは、「やる人間は使うけれども、やらない人間は使わない」。結果がすべてという面がありました。有藤さんは僕、正直そんなに細かい野球はやらないだろうと思っていたんです。ところが意外と言ったら失礼ですが、いろいろシチュエーションを考えながらやっていたので、非常に野球の勉強になりました。

パンチ 僕、有藤さんとはラジオなんかで結構話をさせていただいているんですが、金田(正一)監督がいらしたころ、とにかく練習が終わったらマッサージをしてもらえ、と言われているのに、有藤さんはポンッと外へ出かけてしまう。それで金田さんが「有藤、マッサージしてもらえ」と直接言うと、「そんなことをしたら、飲む時間がなくなる」と言ったとか(笑)。

丸山 ……(笑)。

パンチ だから余計、有藤さんが細かいってお聞きして、意外に思いました。落合さんにはバッティングのこと、何か教わりましたか?

丸山 4年間一緒にやらせていただいて、よく言われたのは絶対ケガをするな、ですね。バッティングのことは一度だけ、教わりました。僕がマシンで打っていたとき、「いいか、マル(丸山)。ピッチャーがボールをリリースしてからキャッチャーミットに入るまでは、必ず道があるんだ。それをお前、頭の中で思い描けているか?」。カーブなら、カーブの軌道がある。そこで打ちに行くんじゃなく、備えて待つことができているか、と。「どういう待ち方をしたらいいんですか?」と聞いたら、「左バッターならインコースのシュート。それを思い描いていれば(外角のボールがきても)とらえることが出来るだろう」と言うんです。真っすぐを待つんじゃない、ということを、そのとき教わりました。

パンチ 分かるようで、難しいですね。

丸山 外のボールを待っていたら、打てないゾーンが出てくるということですね。でも自分に向かってくるボールは見えるから、球の道をしっかり思い描いておけば、自分のポイントで決めて、ボールをとらえることが出来るんだぞということです。実にシンプルでした。それ以外は自分で考えました。僕は自分の目のポイントと打つポイントをなるべく近づけたいと思っていたので、そこは張本(勲)さんを参考に。当時近鉄にいらした新井宏昌さんのバッティングも参考にしました。

梨田さんのうなだれた姿が印象的だった10.19


現役時代は二塁手として86年は11試合、87年は15試合にスタメン出場した


パンチ 新井さんといえば1988年、「10・19」の第2試合。近鉄の勝ちがなくなった延長10回裏の先頭バッターとして打席に入ったのが、丸山さんだったんですね。あのときはどんな雰囲気だったんですか?

丸山 エライことをしてしまったなという気持ちと、早くこの打席を終わらせたいなという気持ちがありましたね。レフト側だったと思うんですが、ファンがなだれこんできて、タイムがかかるし。マウンドの加藤(哲郎)は「はよ(打席に)入れ」とか毒づいてきて、一瞬「年下のクセに」とムッとしました。ベンチにいた山本功児さんと西村さんも「お前、なんだ」と言って、険悪なムードになりかけていたんです。ただ、ふと見ると、キャッチャーの梨田(昌孝)さんがうなだれている。そこで自分が怒るのもなんだなと思って、(気持ちを)収めました。結局四球を選んで出て、ピンチランナーと交代しました。帰りもファンが大勢外にいて、1時間半か2時間ぐらい球場から出られませんでした。

パンチ あんな川崎球場は初めてでしたね。

丸山 壊れるんじゃないかと思いましたよ(笑)。いつもならガラガラのスタンドが波打ってわさわさ、わさわさしていて……。

パンチ 現役時代、一番の思い出はなんですか?

丸山 4年目(86年)のプロ初ホームランですね(9月18日、近鉄戦=川崎)。ウチの先発が100勝のかかった仁科(時成)さん。相手ピッチャーは久保康生さんでした。ライトにガーンっと逆転決勝2ランを打ちました。あの1本で人生が変わりましたね。そこからは、楽しかった。一軍ってこういうものなんだと分かったし。それまでは結果を出さなければいけないのに、思うようにできない自分にも腹が立つばかりだったんです。

パンチ 僕もそうですけど、みんなプロに入ったら一軍に行って最低ヒット1本は打ちたい、ホームラン1本打ちたい……って思いますもんね。1本もヒットを打てずに引退する選手も多い中、やはり一番の思い出なんですね。

丸山 だって、爪痕を残したいじゃないですか。今思えば、そこで一つ結果を残して、どこか「これで、いつでも辞めていいかな」という感傷モードになりました。あとは付録だ、というような感覚でやらせてもらっていた部分があったと思います。

 89年、丸山さんのプロ7年目のシーズンは、開幕一軍からスタートした。高卒2年目の内野手・堀幸一が力を伸ばしてきたころだった。

 夏場になって、有藤監督から二軍行きを命じられた。

「もうそろそろエエやろ、と肩を叩かれました」

 近大の大先輩・有藤から早めに“引導”を渡されたのだと、丸山さんは悟った。

金田正一監督から裏方の極意を教わる


2020年7月31日のロッテ対楽天戦[ZOZOマリン]の試合前、定年退職記念の始球式に登板した丸山氏


パンチ 丸山さん自身は引退について、どう思っていたんですか?

丸山 僕はプロに入る前から、30歳までにレギュラーが取れなかったら辞めようと決めていました。

パンチ ああ、それは僕も同じです。30歳までだったらやり直しがきくだろうから、そこまでに白黒はっきり付けたいと思っていました。じゃあ未練もなしに、もうこれで次の人生に進むぞと?

丸山 そうですね。そこで球団に残って、金田(正一)新監督付きの広報担当になりました。

パンチ 僕、金田さんのことすごく好きなんですよ。オリックスにいたとき、「佐藤、お前ロッテ好きか?」と聞かれたんで「はい、ロッテオリオンズ友の会に入っていました」って答えたら、「じゃあ、ロッテに来い」(笑)。「今年入ったばかりなので、また来年以降、何かありましたらお願いします」と言いましたよ。オフも、「野球選手がちょろちょろテレビに出るんじゃないよ、あ、そういえば俺が先駆者だったな」とか(笑)。そんな金田さんの広報って、どんな仕事だったんですか?

丸山 マネジャーみたいなものですね。取材のスケジュールからお金の管理までしていました。

パンチ 野球ばかりの人生から、戸惑いはなかったですか?

丸山 いやあ、まるっきり素人なので、今みたいにパソコンも使えなかった。女性社員に毎日文章作成ソフトなんかの使い方を教わって、それはもう苦労しました(笑)。

パンチ そこからいろいろな部署にいらしたと聞いていますが?

丸山 1年間金田さんの専属広報に就いたあと、二軍のコーチを3年間務めました。それからチーム広報、二軍マネジャーですね。以降は現場を離れて営業企画、球場管理、連盟担当、二軍の試合興行……と2、3年に一度は異動していましたから。経理とスカウト以外は、ほぼすべて経験しました。

パンチ 球団職員としての仕事の中では、どういったことが思い出として残っていますか?

丸山 1つは、金田さんから“裏方の極意”を教わったことですね。

パンチ 金田さんに“裏方の極意”なんて分かるんですか?

丸山 分かりますね。金田さんも表の顔と裏の顔がある。表の顔は佐藤さんもご存じの、「俺は金田だ」というタレントです。でも僕は、疲れ果ててホテルのベッドに倒れ込んで動けない金田さんも見たことがあるんですよ。そのときはシャワー、入浴までお手伝いしました。金田さんに言われたのは、「目配り気配り心配り」。目配りは、全体を見渡し状況を把握する。気配りは、ゴマをすっていいときは絶対やれ。それで相手がその気になってくれればいいだろう、と。心配りは一番難しくて、相手の気持ちを汲み取って、自分ができる範囲のことをしてあげる。

パンチ 引退して1年目、その一番大切なものを学べたのは財産になりましたね。

丸山 その通りです。それ以降、どんな監督が来ても動じたり遠慮したりということがなくなりました。ボビー・バレンタイン監督が日本野球の根性論を理解しようと1000本ノックを受けたとき(95年)、200本目からノッカーを務めたのは僕だったんですよ。

パンチ それも強烈な思い出ですね。

丸山 もう一つは瀬戸山隆三さんがいらしたとき、球団に地域振興の部署ができて、そこに配属されたこと。ソフトバンクが一時期、アジアリーグ構想を提唱したことがありましたが、あれのマリーンズ版で、中国へ野球を教えに行きました。それが、これから僕がやろうとしている事業の原型になりました。

パンチ 中国にはどのくらい行かれていたんですか?

丸山 足掛け7年。だからチラッと中国語もしゃべれます。中国での野球の位置付けは、ソフトボール以下なんですよ。これは真剣に野球を広げなければいけないなと思いました。まず野球のすそ野を広げる環境がないから、陸上崩れ、バスケットボール崩れ、やり投げ崩れといった“崩れ者”の集団なんです。ボールを投げてもティー台を置いて打っても、内野を越えないようなところから教えていきました。

パンチ その経験が、これからの仕事につながるというのは?

丸山 野球を通した人材育成をしたいんです。まずは「スポーツコミュニティースクール」という名称でのスタートになりますが。

子どもたちになんでも正しいものを伝えたい


パンチ 具体的にはどんな内容になるんですか?

丸山 今、すでに野球塾はいくつもありますが、スキルとトレーニングだけの講座が多い。それに加え、食育や補食(サプリメント)の講座。動画による解析と分析、メンタルケアの講座も作ります。

パンチ 受講生は何歳ぐらいを対象に考えているのでしょう。

丸山 いつでも、どこでも、誰とでも、好きな講座を受けられるようにします。僕自身、現在まで野球関連の仕事しかしていませんが、「子どもたちに何か正しいものを伝えたい方がいらしたら、ぜひ講師として教えにきてください」というスタンスでいきたいんです。例えばパンチさんが「この場所でこんなことを教えたい」と手を挙げたら、「じゃあ月に何回、こういう講座をやってみませんか」と提案する。人手が足りなければ応援に行きます、といった形をつくりたいと思っています。

パンチ それはとても大きなプロジェクトですね。すごいな。

丸山 せっかくスキルを持ってプロ野球人生を終えたのだから、そのスキルを人のために使ったほうが面白いんじゃないかな、という考えなんです。でもコミュニティースクールは、あくまで取っ掛かりですよ。10年先には、できたら“地球人教育”を世界中の人々に広めたい。僕は中国に行って、彼らと接して、日本人だ中国人だアメリカ人だと分けている自分のちっぽけな考え方がバカらしくなったんです。そこで、スポーツを通して「地球人としての考え方、行動ができる人」を育てたいなと思ったんですよ。

パンチ 僕なんか、自分の10年先のことも考えていないのに……。

丸山 そうしたら、生きがいもできるでしょう。野球をやっていたときは甲子園に向かって突っ走っていた。できるできないは別にして、今から10年先のゴールに向けて走れればいいじゃないですか。

パンチ 引退した30歳の人が言うならともかく、還暦を越えてもう一つ大きな山を目指すなんて、本当にすごいパワーですよ。最初はどこかに本拠地を置くんですか?

丸山 幕張のベイタウンでスタートします。ただ、固定はしません。稲毛の「ちばっ子寺小屋」といって、放課後の預かり教育をやっているところがあるんですが、そこの“習い事教室”で月3回、「投げ方教室」も行う予定です。

パンチ それはスタッフ何人でやるんでしょう。

丸山 私だけですよ。いずれはセカンドキャリアの人たちを巻き込んで、大きな組織にしていきたいです。そうすれば、組織として外国にも売れるでしょう?

パンチ ロッテ時代にさまざまな部署を回った経験がすべて、その中に生きているんですね。なかなかそんな発想、出てきませんよ。

丸山 いろんな人がそれぞれのアイデアを実行することによって、どんな化学変化が生まれるのかがまた面白いかなと思うんです。ただ、まだまだお金にはなっていないですからね。ある社長さんに言われました。「丸山君、君がやろうとしていることは素敵だけれど、何をするか、本質をもう少し具体的に、明確にしないと商売にはならないよ」と。だから今は4月に向けた準備期間として、いろいろなデモテストをしながら、丸山一仁という人間を前面に出していく。丸山ってこういう人間なんだ、面白いな、だけど商売っ気はないな、でもいいんです。今日こうして佐藤さんと出会って楽しく話をさせてもらったように、またいい出会いがあるかもしれませんから。

パンチの取材後記


 今回の対談はもう、最初から「終わってしまった(野球の)話はこのへんで、これからやろうとしている事業の話を聞いてよ、しゃべりたいんだよ」という丸山さんの熱気が伝わってきましたね。

 前回、城友博君との対談でも話しましたが、僕は57歳にして、人生の山をゆっくり下山し始めようと思っていた。ところが丸山さんは還暦を過ぎ、あと数年で年金ももらえようかというところから、とんでもなく大きなことに挑戦しようとしています。僕にはそんなパワーがないなと、とにかく感心してしまいました。

 だけど、丸山さんは言うんです。「先人たちが積み上げてくれた野球というレガシーのその先を、60歳過ぎてから夢見てもいいんじゃないかと思った」――日本だけじゃない、野球を通じて世界をつなげる人材育成を考えている。「ゆっくりするのは棺桶に入ったときでいい」とも、丸山さん。恩師・金田さんも最後の最後まで“金田正一”をやり通した。丸山さんも恩師に負けない情熱の人生、真っ只中なんですね。

丸山氏


●丸山一仁(まるやま・かずひと)
まるやま・かずひと◎1960年10月30日生まれ、愛媛県出身。上浮穴高から近大を経て、ドラフト5位で83年にロッテ入団。左打ちの二塁手、代打として87年には50試合に出場。88年の「10.19」では第2試合の延長10回裏、近鉄勝利が消えた直後の先頭打者だった。89年限りで引退後は球団職員に転身。91年から93年まで二軍コーチを務めたほかは広報、二軍マネジャー、営業、中国担当などを歴任。2020年に定年退職し、現在は千葉市内でスポーツコミュニティースクールの開設を目指して準備中。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=中島奈津子
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