1990年、巨人大独走のセ・リーグで序盤だけだが、首位戦線に絡んだのが、万年Bクラスの大洋だった。果たして何が起こっていたのか。 負け犬の根性の払拭
情熱あふれる指導を見せた須藤監督
当時の『週刊ベースボール』に、大洋ファンの漫画家やくみつる氏が開幕前、「僕の期待はシロナガスクジラのようにでかい。30年ぶりの優勝だ!」と言っていたとあった。言うまでもないが、世界最大の哺乳類シロナガスクジラを例に出したのは、球団名が『横浜大洋ホエールズ』だったからだ。
1960年以来優勝から遠ざかり、当時6年連続Bクラス、前年は最下位だ。この暗黒期に前年まで巨人の二軍監督だった
須藤豊監督が就任した。熱血指導で巨人をイースタン4連覇に導き、若手育成の手腕には定評があったが、一軍監督の経験がない他球団の監督就任は、やや唐突な印象もあった。
開幕は
中日2連戦(ナゴヤ)。これが死闘になる。ともに延長11回まで進み、初戦が5対5の引き分け、2戦目が8対7の勝利。最後まであきらめない選手たちの戦いを見て、須藤監督は「今年はいけると思った」という。ただ、そのまま3連勝も、そのあといきなり3連敗。次は東京ドームで苦手の巨人相手の連戦とあって「またいつの年と同じか……」と思われたのは事実だ。前年、対巨人は5勝21敗、“横浜大洋銀行”とも揶揄された。
しかし、大洋は連勝。そのまま5連勝で首位に立った。
キャンプ初日からチームに合流した須藤監督は「AFT野球」(アグレッシブ、ファンダメンタル、テクニック)を掲げ、長年にわたって染みついた“負け犬根性”を払拭するため、選手に積極性を求めた。実戦では「ベンチで声を出せ。出さない者は去ってもらう」と言い、率先して相手をだみ声でヤジる。得点したときの“ワッショイ”
コールも話題になったが、これは沖縄キャンプの打ち上げの日、須藤監督が選手に募集し、
清水義之のアイデアが採用されたものだという。
サードのスタメンに抜てきされた清水は、4月18日、東京ドームでの巨人との初戦で0対3から同点弾を放った旋風の主役の一人。須藤采配について「知らないうちに洗脳されて、若手もベテランもいいムードで送り出してくれます」と話していた。翌19日の巨人戦には前年3勝の20歳左腕・
野村弘樹が先発し、1失点完投勝利を飾っている。ほかにも外野に
横谷彰将、
宮里太らを抜擢し、スタメンで使った。
「努力している若手を使ってみる。やってダメだったらそこでまた考えればいいじゃないか」
歴戦の将・須藤監督の考えはシンプルだった。
光ったベテランの活躍
若手起用だけではない。この年、36歳のベテランの
田代富雄は引退を決意していたというが「まだ老け込む歳じゃない」と須藤監督に言われ、発奮。4月30日の
阪神戦(甲子園)では四番に座って2本塁打を放った。
高木豊、パチョレックと脂の乗り切った中軸も好調を維持し、2人で首位打者を争い、最終的にはパチョレックが.326で初のタイトル。もう1人の助っ人打者・マイヤーも26本塁打で77打点をマークしている。
投手陣では、11勝を挙げた野村に加え、ベテランの
斉藤明夫が10勝、
新浦壽夫が6勝と踏ん張った。アキレス腱断裂から復帰も先発で結果を出せなかった
遠藤一彦が抑えとして力を発揮し、カムバック賞にも輝いている。なお、新浦、遠藤、斉藤は野手の重鎮・
加藤博一とともに『ぶっ倒れるまでやる同盟』を組み、新浦以外経験のない優勝に向け、盛り上がっていた。
5月6日、22試合でもまだ首位。「まだシーズンの途中だし気にならない。足元を見て歩いているつもり。それは変わらないよ」と須藤監督は話していたが、クジラの潮吹きのような豪快な試合が何度も見られ、ファンを沸かせた。
そのあと巨人に追い抜かれたが、簡単には離されない。5月25日からの直接対決3連戦(横浜)に2勝1敗で巨人に2.5ゲーム差。6月1日から中日に3連敗で巨人に4.5差となったが、そのあと巨人との東北シリーズ3連戦で5日、福島での初戦は1対2から高木が9回に逆転2ランで3対2の勝利。「きょうは勝負の世界に絶対がないことを信じて戦いました。豊のバットにみんなの執念が乗り移ったね」と須藤監督も興奮気味。2戦目、6日、仙台での試合にも勝利し、対巨人4連勝でゲーム差を2.5とした。
ゲーム差5で挑んだ6月19日からの巨人3連戦(横浜)が最後のチャンスと言えたかもしれない。初戦まず巨人キラー、野村が
桑田真澄と投げ合い、勝利投手。「(PL学園高の先輩)桑田さんに勝ったのがうれしい」と声を弾ませたが、そのあと連敗。須藤監督は「敗軍のヘボ監督、何も語らずだね」と淡々と語った。
そのあと残念ながらクジラの浮上はなし。最終的には3位で7年ぶりのAクラスとはなったが、64勝66敗3分けと負け越し、首位の巨人には24ゲーム差がついていた。
写真=BBM