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ライオンズ「チームスタッフ物語」2022

日本ハム連覇に貢献した“セギ様”。西武では輝かしい外国人の系譜に名を連ねる選手獲得を誓う/ライオンズ「チームスタッフ物語」2022【Vol.03】

 

グラウンドで躍動する選手たちだけではなく、陰で働く存在の力がなければペナントを勝ち抜くことはできない。プライドを持って職務を全うするチームスタッフ。ライオンズを支える各部門のプロフェッショナルを順次、紹介していく連載、今回はかつてオリックス日本ハム楽天でプレーし、現在は西武で国際業務担当(駐米)を務めるフェルナンド・セギノール氏を紹介しよう。

忘れられない日本ハムでの優勝


現在は西武で国際業務担当(駐米


 2002年、エクスポズ(現ナショナルズ)からオリックス・ブルーウェーブ(現バファローズ)に入団したフェルナンド・セギノール氏。5月5日の近鉄戦で史上15人目となる左右両打席で本塁打を放つと、翌6日のロッテ戦では史上初の2試合連続両打席アーチを達成した。7月26日の近鉄戦ではシーズン3度目の両打席アーチ。長打を打てるスイッチヒッターとして球史に名を残したが、23本塁打を放ちながら打率.204と確実性が上がらず、1年限りでチームを去ることになった。

「来日する際には日本の文化に関する本を読んだりして、準備をしていました。私は環境が新しくなることに慣れているんです。パナマの田舎町から高校へ進むときに都会に出ていき、プロ野球選手になってパナマからアメリカへ。異国の地ではオープンマインド、なんでも受け入れる気持ちが必要なことも分かっていましたから。日本でも最初は少し苦労したところはありましたが、スムーズにアジャストできたと思います。

02年、オリックスで初来日を果たした[写真=BBM]


 もちろん、ブルーウェーブでは全力を尽くしました。しかし、最終的には1年限りで退団して、翌年はヤンキースの3Aに所属することに。日本で学んだことを生かすことができて好結果が残せましたが、自然と日本に戻りたい気持ちが生まれましたね。そこでタイミングよく、日本ハムファイターズと契約を結ぶことができ、04年は北海道に本拠地を移したばかりのファイターズのユニフォームを着ることになりました。

 ファイターズではいろいろ印象深い出来事がありましたが、まず初めて札幌ドームを見たとき、かなりの大きさに驚いて『このスタジアムを満員にできるわけないでしょ』とヒルマン監督に話したことを覚えています(笑)。それが徐々にファイターズが北海度に根付いていき、スタジアムがファンで埋まるようになり、非常に感動しましたね。

4年間在籍した日本ハムでは06、07年のリーグ優勝に主砲として貢献[写真=BBM]


 チームメートも素晴らしかったです。稲葉(稲葉篤紀)さんはプロフェッショナルなリーダー、小笠原(小笠原道大)さんはグラウンド上のリーダー。金子(金子誠)さんもキャプテンとしてチームを牽引し、高橋(高橋信二)さんも若手でしたが、いい選手でしたね。岩本(岩本勉)さんは面倒見が非常によく、みなの世話をしてくれました。そして、新庄(新庄剛志)さん。チームをスパークさせるというか、選手の心に火をつけるような選手でしたね。

 北海道移転当初のファイターズはチームをつくり上げている段階でしたが、ダルビッシュ有など若手も育ってきて。徐々に勝てるチームになっていき、06年に優勝を果たしました。この年はワタシにとって2人目の子どもが生まれたこともあったので、本当に幸せなモーメントでしたね。

 そういえば優勝を決めて祝勝会などが終わり、自宅マンションに戻ってテレビをつけたらバーや札幌の街の中でファイターズの優勝を喜んでくれているファンが本当に大勢いました。その姿を見て、すごく感慨深い気持ちになりましたね。それも忘れられないシーンですね」

野村監督と過ごした楽天での日々


08、09年は楽天でプレーした[右下がセギノール氏。写真=BBM]


 日本ハム1年目の2004年に44本塁打でタイトルを獲得、さらに06、07年の連覇時にも主砲としてチームを牽引したセギノール氏。日本一に輝いた06年の日本シリーズでは2本塁打を放ち、優秀選手にも選ばれている。大きな笑い声とジェスチャーとともに、人懐っこい笑顔でも選手たちに慕われ、ファンからは「セギ様」の愛称で親しまれた。07年限りで日本ハムを退団し、08年はアメリカ独立リーグでプレー。そのとき、東北楽天ゴールデンイーグルスから声が掛かった。

「イーグルスにはシーズン途中に加入しましたが、実は代理人から「楽天が日本に来る意思があるかどうか確認している」と連絡があった数日前に足をケガしてしまっていたんです。迷いはありましたが、代理人は「大丈夫。ホームランを打てば走る必要がないから」と言ってきて(笑)。それで来日を決断しました。まだ足が痛かったんですが、イーグルス1年目は39試合で13本塁打と一発を量産できて、チームに貢献できたと思います。

 当時は野村(野村克也)監督がチームを率いていました。いい関係を築けましたし、名将と呼ばれる方の下でプレーできたのは貴重な経験でしたね。試合前、みんながストレッチしている前に野村監督が座っていて、そこでの会話が印象に残っています。野球の話や、天気の話など話題はさまざまで……。すごくリラックスできましたね。

 不振が続いていたとき、野村監督に「俺の言うことを聞けば打てるようになる」と言葉を掛けられたことも覚えています。「1週間試合に出ないで、走ることだけやってくれ」と言われて。夏の時期でつらかったんですけど、ライトポールからレフトポールの間をずっと往復で走ったら、次の週、3、4本のホームランを打てたんですよね。あらためて野村監督はすごいと思いました。そのときに日本映画の『ミスター・ベースボール』のことも思い出して、自分が主演のトム・セレックになったようななったような気分になりましたね(笑)。

 ワタシが日本で成功した要因はまず、自分の能力を信じたことでしょう。あとは日本で起こったすべての出来事を受け入れ、学んだことです。日本の文化も愛していましたし、グラウンド内でも、グラウンド外でも、常に向上することを考えていました。さらに両親の教えですが、どんな人にも親切に対応すること。これらが成功に欠かせない要因でした」

西武で新たに積むキャリア


ベルーナドームでオグレディ[右]と言葉を交わすセギノール氏[写真=球団提供]


 09年まで楽天でプレーし、10年はアメリカ独立リーグに所属。そのシーズン途中にオリックスのユニフォームを着た。日米間のチームを何度も行き来したセギノール氏。11年は再びアメリカ独立リーグでプレーしたが、目的は母国・パナマのナショナルチームの一員として大会に出場する準備のためだった。その時点で引退後のビジョンは描けていなかったが、独立リーグへ視察に来ていた巨人の国際部・宮村俊介氏(現西武国際戦略チーフ)と出会ったことが転機に。巨人で外国人選手のスカウティングを行ってくれないかと提案を受け、国際スカウトの道を歩むことになった。

「ジャイアンツでは素晴らしい5年間を過ごしました。その後はカブス、マーリンズで国際スカウトを務めましたが、カブスではヤンキースからアロルディス・チャップマンを獲得するミーティングにも参加。部屋には5人しかいませんでしたが、非常に光栄なことでしたね。マーリンズでは育成ディレクターも務めていましたが、マイナーでチームメートだったデレク・ジーターと一緒に仕事をしました。14〜16歳の若い選手を獲得して育てるのですが、その中の一人に現在19歳で2Aのプロスペクトとして挙げられている右腕のエウリー・ペレスがいますね。

 昨年11月に西武の国際業務担当(駐米)に就任しました。選手を獲得する際に重要視するのは、日本で成功したいという強い気持ちですね。今年5月に育成で野手のロマー・コドラド、投手のジャシエル・ヘレラをチームに迎え入れましたが、獲得する前に何回もインタビューを行いました。選手として将来性があり、チームにフィットすることはもちろん、素晴らしい人間性も確認できました。ライオンズのコーチたちも彼らが向上心にあふれ、周囲にしっかりと敬意を払うと評価していると聞いて、非常にうれしく思っています。

 コドラドはパワーが魅力です。コンタクトする能力を上げて打率を残せるようになれば、十分に戦力になるでしょう。ヘレラもファームでいいピッチングを繰り返しています。ストライクゾーンに投げ込んで攻めるスタイルに期待が持てます。現時点で育成選手のトップレベルと言えるでしょう。将来的に一軍の勝利に貢献できる選手になってもらいたいです。

 ライオンズにはコーチスタッフにも対戦した人が多く、再会できて非常にうれしい。伝統があるチームですし、その一員になれて大変光栄です。オレステス・デストラーデなど日本で活躍した外国人選手もたくさんいて、その系譜に名を連ねる選手を獲得していきたい。とにかく、ベストな選手を探して、チームがプラスの方向に進むように力を尽くしていきたいです」

文=小林光男
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