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逆転野球人生

勝負弱い虎のエース候補・野田浩司が、トレード先で奪三振マシーンとして覚醒できた理由【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

先発、リリーフで投げまくった阪神時代


88年にドラフト1位で阪神入団。3年目まで背番号は1だった


 決して能力を評価されていないわけではない。だが、能力があるからこそ、組織から便利屋のように使われてしまう。

 かつて、野田浩司もそういう若手投手だった。熊本の多良木高時代は“九州の三羽ガラス”と称される右腕で、11球団のスカウトが挨拶に。特に巨人のスカウトが熱心で、「1パーセントでもプロに行きたい気持ちがあるなら指名する」と最後まで粘ったという。仮にこのときプロ入りしていたら、のちの藤田巨人で斎藤雅樹桑田真澄槙原寛己らと“四本柱”を形成していたかもしれない。しかし、本人にその意志はまったくなく、楽しく野球ができそうだからとバス会社の九州産交へ。通算22勝をあげるも、2年目に事件が起きる。突然、会社都合により野球部の休部が発表されたのだ。

 日産九州に移りプレーすることになり、背番号や入社日も決まるが、プロ側は日本選手権の予選で3試合連続の完投勝利をあげた19歳の煌めく才能を諦めなかった。ドラフト会議の2週間前にヤクルトのスカウトがコミッショナー事務局に確認したところ、通常は高卒3年を経たなければドラフト指名受けられないが、“休部”ではなく“廃部”ならば、特例で2年目でも即プロ入り可能とみなされたのである。ならばと会社側も休部から廃部に変更して後押し。こうして、野田は87年秋のドラフト会議で阪神から1位指名を受けるわけだ。

 その年、最下位に沈んだチームは世代交代の真っ只中で、なにより即戦力投手を欲していた。当然、背番号1のドラ1右腕は、1年目の88年シーズンから投げまくった。43試合(内先発17)登板で規定投球回に達し、3勝13敗、防御率3.98と大きく負け越すも、2年目の秋季キャンプでドジャース傘下の投手コーチからフォークの指導を受けるとコツを掴み、翌90年には先発に抑えに11勝12敗5セーブを記録。ヤクルトの野村克也監督はフォークボールのあまりの落差と変化に「あれはお化けやで」と驚き、元大リーガーのマット・キーオは完投目前でマウンドを降り、「完投? ウチにはリーグ1のストッパーがいるから、彼に任せればいい」と野田の潜在能力を高く評価した。

 背番号18を託された91年には初の開幕投手を務め、8勝14敗1セーブと負け越すも、チーム最多の212.2回を投げた。「先発して、1日たったら2日続けてベンチ入り。で、リリーフで投げて1日たったらまた先発」なんて本人も自虐的に口にするフル回転ぶりで、最下位に沈んだ阪神投手陣で奮闘する。ただ、首脳陣はときに制球を乱し負けが先行する野田は“勝負弱い”という先入観があり、起用法は場当たり的なものが多かった。一方で投手コーチとぶつかり一軍昇格を拒んだり、野田の精神面もまだ未熟だったのも確かだ。92年はキャンプで故障した左足の小指をかばって投げる内に肩やヒジも痛め、5月15日に登録抹消。40日以上たった6月29日にようやく戦列復帰すると、7月8日大洋戦の復帰初先発を完封勝利で飾り、同31日の大洋戦まで3完封含む4連続完投勝利。チームの月間3完封は73年の江夏豊以来という活躍で月間MVPに輝いた。

松永との「格差トレード」でオリックスへ


 野田が8勝9敗1セーブ、防御率2.98と存在感を見せた92年の阪神は久々にV争いを繰り広げ、終盤に力尽きたものの首位ヤクルトとは2ゲーム差の2位タイ(巨人と同率)。皮肉にも7年ぶりの優勝まであと一歩まで迫ったことで、オフに本気で大型補強に打って出るのだ。チーム防御率2.90は12球団トップ、あとは打線強化が課題だった。ドラフトで、あの松井秀喜を1位指名するも抽選で宿敵の巨人にさらわれた。幼少時から虎党で星稜高では三塁手だった松井を逃し、阪神が次にターゲットにしたのが打率3割を5度の実績を誇るオリックス松永浩美というわけだ。このとき、阪神が松井の交渉権を獲得していたら、その後の球史や野田の運命は大きく変わっていただろう。

 当時32歳の松永の92年成績は打率.298、3本塁打、39打点。土井正三監督との折り合いが悪く、大洋への放出や巨人の槙原とのトレード案がスポーツ紙を賑わせた。イニングを食える先発を探すオリックス側は左腕の仲田幸司を欲しがったが、さすがに今季14勝をあげた勝ち頭は出せない。だが、右の野田なら他の若手投手が育ってきているし出せないことはない。12月22日、野田は球団からホテル竹園に呼び出され、トレード通告をされるのである。「トレードに出すのもつらいけど、チーム事情でどうしても松永が欲しいから……。本当に申し訳ない」と詫びる三好一彦球団社長。言われた瞬間は、「そんなもん絶対出らんわ」なんて思った野田も、辞めるか行くかだったら、行くを取るしかないと現実を受け入れた。こうして、32歳三塁手と24歳右腕の交換トレードが成立するわけだ。

 球界を代表するスイッチヒッターに対して、阪神の5年間で通算35勝52敗の若手投手。当初は「釣り合わない格差トレード」、「1万円札と千円札の交換」と松永に対する評価と注目度がはるかに上回った。だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない―――。

 気持ちを切り替えるため、野田は買ったばかりの西宮の家から、すぐグリーンスタジアム神戸の近くへ引っ越した。いつまでも、なんで自分が……なんてネガティブに考えていてもはじまらない。93年2月で25歳の誕生日を迎え、投手としてこれからピークを迎える年齢だ。3年ほど前から練習していたスライダーも試合で使えるレベルになり、フォームも安定してきた。当時のパ・リーグは力対力の概念が強く、振り回してくるバッターが多いことも背番号21にとって追い風となる。

「オリックスの期待に応えたい一心」


95年4月21日のロッテ戦では1試合19奪三振をマーク


 新天地で、野田は奪三振マシーンとして覚醒するのである。序盤に3本塁打を浴びながら、152球の粘投で移籍後初勝利を完投で飾った93年4月21日の近鉄戦で15奪三振、7月4日の近鉄戦でも16奪三振の2失点完投勝利。1シーズンで二度の15K超え(延長戦を除く)は、プロ野球史上初の快挙だった。交流戦もまだない時代、ストレートと同じ腕の振りで投げる野田のフォークボールにパの打者たちは戸惑う。5年間の阪神時代に4度しかなかった1試合二ケタ奪三振を93年だけで9度も記録。「このトレードが失敗だったと言われたくない」という思いも力にかえ、登板日の当日には愛妻手作りの特製バナナジュースを欠かさず飲んだ。バナナに牛乳、卵黄、ハチミツ、レモン汁をミキサーにかけて……なんて愛情一本極秘レシピがリポートされるくらい時の人となった野田は、絶好調の理由を週べインタビューでこう語る。

「いちばんの理由は、コントロールが良くなったことです。アウトコースの低目へきっちり投げられるようになった。以前はどこへ行くかわからんかったですから。投球の組み立てがしやすくなり、やっとプロらしいピッチングができるようになった」

 そして、26登板すべて先発という一貫したオリックスの起用法に感謝を示すのだ。

「中5、6日あけて使ってもらったから、調整しやすかったんです。阪神時代は中継ぎと抑えもやりましたからね」

 首脳陣の使い方によって、選手の運命は大きく変わる。移籍1年目を17勝5敗、防御率2.56。225回を投げて209奪三振。あらゆる部門でキャリアハイを大きく更新し、“ドクターK”こと野茂英雄と最多勝を分け合った。8月の月間MVPやゴールデン・グラブ賞も受賞し、“虎の便利屋”は“オリックスのエース”へ見事な逆転野球人生を実現させたのである。トレード相手の松永がわずか1シーズンでFA権を行使して阪神を去ったことを聞かれても苦笑いするしかなく、「松永さんに負けたくないというより、オリックスの期待に応えたいという一心だった」と喧噪の1年を振り返った。阪神時代は些細なことでマスコミに追いかけられたが、オリックスののんびりしたチームカラーも心地良かった。ちなみにセ・リーグでほとんど経験のなかったデーゲームでは7勝1敗、防御率2.56と無類の強さを発揮。いわば、パ・リーグの水と新しい職場の環境が野田には合った。社会人時代は基本給10万円そこそこのサラリーマンだった男は、93年オフの契約更改で球団史上最高の4500万円アップを勝ち取り、年俸8600万円と一流投手の仲間入りを果たす。

フォークの投げ方を実演する野田


 移籍2年目、94年8月12日の近鉄戦では初回から三振の山を築き、1試合17奪三振の日本タイ記録の完投勝利で13連勝中のいてまえ打線を止めた。なお、同年には鈴木一朗から登録名を変えたイチローがブレイク。イチローのヒットと野田の奪三振が仰木オリックスの代名詞となっていく。95年4月21日のロッテ戦ではプロ野球新記録の19奪三振を樹立。風速8メートルのマリンスタジアムの強風も味方して野田のフォークはまるで漫画の魔球のようだったという。9回に19個目の三振を喫した平野謙は、のちに週べの取材に「止まって真下に落ちたり、逆にどういう具合かは知らないけど、浮かび上がるような球になったりしました」と当時の衝撃を明かしている。

 野田は93年から3年連続二ケタ勝利に200奪三振。95年には「がんばろうKOBE」のリーグ優勝にも大きく貢献する。仰木監督の胴上げの際、野田はプロに入って初めてうれし涙を流した。97年オフにはFAでの古巣・阪神復帰も噂されたが、オリックスと3年契約で残留。だが、1600イニング以上投げてきた鉄腕も98年には右ヒジ手術を経験し、32歳の2000年限りで現役を引退した。

 2000年10月13日、グリーンスタジアム神戸。メジャー挑戦を表明したイチローの国内ラストゲームで、背番号21もオリックスのユニフォームに別れを告げる。最後の一球。野田が引退セレモニーの始球式で投じたのは、己の野球人生を切り開いた、フォークボールだった。

文=中溝康隆 写真=BBM
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