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全国屈指の修羅場に身を置いてきた新指揮官 熟知する「負けない野球」で帝京平成大を不気味な存在に

 

「東北の雄」の黄金期を裏方としてバックアップ


2月1日から帝京平成大を率いる原監督[左]。新指揮官の考えを、主将・曽場[右]はチーム全体に落とし込んでいる


 新監督就任後の初練習で、170人の部員を前にして言った。

「歴史の1ページをつくり、歴史をつないでいくことが伝統になる」

 原克隆監督は2月1日から東都大学リーグ三部の帝京平成大を率いている。

 県岐阜商高では3年夏に八番・三塁で甲子園出場。東北福祉大では3年秋から学生コーチとなり、名将・伊藤義博監督(故人)を支えた。4年時(1991年)の全日本大学選手権で初優勝。同級生の斎藤隆(元横浜ほか)、作山和英(元ダイエー)、浜名千広(元ダイエーほか)、金本知憲(元広島ほか)、伊藤博康(元巨人ほか)がプロ入り。「東北の雄」の黄金期を、裏方としてバックアップした。

「毎年、ドラフト指名選手が出ていましたので『絶対にプロへ行く』と意識の高い集団でした。特に金本の心構えは相当なものでした。僕たちがポテトチップスらスナック菓子を食べている傍らで、煮干しを手にしていたんです。当時から体づくりを徹底していました」

昭和コンクリートで監督に


 大学卒業後は、社会人野球・昭和コンクリートに入社。選手ではなく、コーチとして加入するという異例の人事だった。6年務めた後、東北福祉大・伊藤監督から呼ばれ、母校にコーチとして戻り(昭和コンクリートから出向)、98年の明治神宮大会準優勝、2000年の全日本大学選手権準優勝をサポートした。

 02年から昭和コンクリートの監督に就任も、1年目を終えると、会社上層部から03年限りでの休部が伝えられた。「秋の日本選手権まで活動する選択肢もあったんですが、そこまで引っ張ると、次に影響が出てしまう」。原監督は現役続行を希望する選手の移籍先を探す時間を設けるため、夏の都市対抗を最後とする決断をした。仮に日本選手権まで活動していると、各チームの新体制に間に合わないと判断したからだ。昭和コンクリートは激戦区の東海地区予選を勝ち上がり、本大会は初戦敗退も、東京ドームで有終の美を飾った。原監督は全国各地を奔走。選手27人中、21人(硬式16人、軟式5人)の移籍先を決めてきた。

 自身のことは、後回しだった。

「選手たちの移籍先を決め、社長のところへ報告しに行くと『最後はお前だな』と、いくつかのチームからオファーがあると紹介していただきました。そこで『ここでやりたい』と決めたのが中部学院大でした。グラウンドもなくて、監督も不在だ、と。部員は20人。一から作り上げていく魅力がありました」

 20人と聞いていた部員も、集合日を決めると、16人しか集まらなかった。「グラウンドは草原。奥ではサッカー部が週3回、活動していました。ティーネット2つと、テープで巻かれたボール2ケースだけ。フェンスもありませんでした(苦笑)」。原監督は大学の用務員と手を組んで、荒れたグラウンドを耕し、除草剤をまき、球場づくりから着手した。内野には黒土を入れ、ケージ、フェンス、ブルペン、室内練習場を設置するなど毎年、一つひとつ環境を整えていった。

「多くの方が、力を貸してくださいました。感謝の言葉しかありません」。高校、大学、社会人と豊富な人脈で「原に預けたい」と、学生が入学してきた。就任4年目の07年に全日本大学選手権初出場。13年には明治神宮大会に初出場し、悲願の「全国1勝」を挙げた。21年秋のシーズン前に退くまで全日本大学選手権2回、明治神宮大会3回出場。在任18年で社会人に80人、NPBに野間峻祥床田寛樹(ともに現広島)ら5人を送り込んだ。

「三部で全勝優勝して、二部に挑む」


 帝京平成大から就任要請があったのは昨年12月だった。同大学は21年秋まで千葉県大学野球連盟に在籍していたが、昨春から東都大学野球連盟に新規加盟。昨春は四部優勝で三部6位・成蹊大との入れ替え戦を連勝で三部昇格。秋は三部優勝も、二部6位・国士舘大との入れ替え戦を1勝2敗で昇格を逃していた。前監督は昨秋のシーズン途中に退任。村松伸哉コーチが監督代行を務めた中、後任候補として、原監督に白羽の矢が立った。

「大学の恩師・伊藤監督はかつて東都一部で一時代を築いた芝浦工大出身。大学在学中は『関東の大学、関西の大学には負けるな!』と、東都イズムをたたき込まれてきました。大学選手権の開幕前、宮城から東京へ向かう際には必ず、春の東都一部6位校と二部優勝校とオープン戦を組んでいました。入れ替え戦を控えた両校のモチベーションの高さは相当です。そこで『戦国・東都』の必死さ体感して、神宮の本大会に乗り込むんです。中部学院大を率いていたときも『関東の大学、関西の大学には負けるな!』と言い続けてきました。今回は関東、しかも歴史と伝統がある東都で監督のお話をいただきました。お断りする理由は、どこにもありませんでした」

 原監督が掲げるのは「試合のための練習」である。「すべてがつながっている」と、野球の基本であるキャッチボール、ペッパーから実戦を想定した動きを事細かに指示。中部学院大からの部訓である「気付け! 感じろ! 動け!」を帝京平成大でも踏襲している。

「この3つは野球だけでなく、社会に出た際、今後、生きていく上でも大事なことです。指導に飢えていたのか、約1カ月で成長しているのは明らかです。私にとって東都は未知の世界。学生と一緒に成長していきたいです」

 主将・曽場大雅(4年・履正社高)は原監督が目指す「意識改革」に手応えを感じている。

「目的が明確になったので日々、全力で取り組めます。『凡事徹底』をスローガンとしていますが、当たり前のことができないと、人としても成長しない。実績のある原監督の教えを信じ、ついていきたい。この春は三部優勝で入れ替え戦を制して、後輩たちに二部で戦う素晴らしさを見せて卒業したいと思います」

 原監督はあらためて、抱負をこう語る。

「三部で全勝優勝して、二部に挑む。まずは二部で戦うための土台づくりをしたい。そして一部で昇格し、一部優勝が最終目標です」

 かつて原監督が指揮した中部学院大は、東海地区大学野球連盟の所属である。6月の全日本大学選手権に出場するには岐阜県リーグで1位となり、静岡県、三重県の各1校との東海地区選手権で優勝しなければならなかった。また、11月の明治神宮大会へ駒を進めるには、東海地区の連盟王者となった上で、愛知大学、北陸大学の各連盟優勝校との代表決定戦を勝ち上がる必要があった。つまり、原監督は全国屈指と言える修羅場に身を置いてきた。「負けない野球」を熟知しており、帝京平成大でも不気味な存在へと成熟させるはずだ。

文=岡本朋祐 写真=BBM
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