週刊ベースボールONLINE

プロ野球もしもオーダー

侍vs.野武士。落合博満が来た中日で「谷沢が監督でチーム内に谷沢がいたら」どうなった?【プロ野球もしもオーダー】

 

“野武士野球”のV戦士にトレードなくば


1982年のリーグ優勝を四番としてけん引した谷沢


 確かに、プロ野球の選手がバットを構える姿は、刀を携える武士に似ている。侍ジャパンとは、実に絶妙なネーミングだ。ただ、侍であって武士ではない。侍と武士は厳密には意味が違うのかもしれないが、それを掘り下げるのはよそう。侍ジャパンが強化試合で初めて敗れたのが中日だったが、かつて中日に“野武士野球”を掲げた時代があったことが思い出された。リーグ優勝を飾った1982年だ。

「守りの野球は古い。これからは攻撃野球だ」と語ったのは近藤貞雄監督。自ら命名した“野武士野球”で打線は躍動、セ・リーグで初めて全390試合の最後でリーグ優勝を決める劇的なフィナーレだった。だが、5位に終わった翌83年オフに近藤監督は退任、82年のV戦士たちは次々に引退や移籍で中日を去っていく。

 86年オフには星野仙一監督が就任、パ・リーグで2年連続3度目の三冠王となったばかりの落合博満ロッテから加入した一方で、82年の四番打者だった谷沢健一が引退。このとき星野監督が、一匹狼でマイペースな面もあった谷沢に対して「この先3年、現役でやれる自信があったら、やったほうがいい。来年1年でやめようと思うなら、いまやめたほうがいい」、「谷沢、逆の立場になってみろ。谷沢が監督でチーム内に(選手として)谷沢がいたらどうする」と引退を迫ったと伝わる。

 今回の「もしも」は、この星野監督の言葉そのままが実現したら、どうなっただろうか、というものを考えてみる。つまり、3年後の89年、監督が谷沢で選手としても谷沢がいたら、という想定をしてみよう、という試みだ。82年の打線で規定打席に到達したメンバーは谷沢よりも前、84年オフに田尾安志が、翌85年オフにはケン・モッカが、87年オフには大島康徳平野謙が、翌88年オフには中尾孝義が去っている。この“野武士”たちも連れ戻してみよう。ひとまず従来のように、守備位置を変えずに82年の先発メンバーを89年のオーダーに入れてみる。

1(中)平野謙
2(右)田尾安志
3(一)谷沢健一
4(三)モッカ
5(遊)宇野勝
6(二)仁村徹
7(左)大島康徳
8(捕)中尾孝義
9(投)西本聖

落合を「四番・二塁」にすると?


1989年、打点王に輝いた落合


 82年の打線で規定打席に届かなかったのは二塁手の上川誠二のみで、89年のベストオーダーから残ったのは同じ二塁の仁村徹だけになった。三塁手のモッカに弾き出されたのは四番の落合博満だ。89年の落合は40本塁打、116打点で打点王。奇しくも落合とのトレード要員の1人としてロッテへ移籍したのが上川で、ちなみに落合はロッテでは二塁と三塁、中日では三塁と一塁でベストオーダーに並んでいる。実際の89年は仁村も規定打席に届いておらず、戦略的には仁村が控えで落合が二塁に入るか、落合が一塁で兼任監督の谷沢が下がるかになるだろう。

 では、落合が「四番・二塁」で、上川が外れて、そこまで打順を繰り下げてみると、以下のようなオーダーになる。

1(中)平野謙
2(右)田尾安志
3(一)谷沢健一
4(二)落合博満
5(三)モッカ
6(遊)宇野勝
7(左)大島康徳
8(捕)中尾孝義
9(投)西本聖

 89年のセ・リーグは巨人の独走で、中日は15.5ゲーム差の3位。ただ、エースは巨人から来て古巣に牙をむいた20勝の西本聖で、この大差を逆転する可能性も皆無ではないかもしれない。では、続きはファンの皆様の夢の中で。

(中日1989年のベストオーダー)
1(中)彦野利勝
2(右)音重鎮
3(一)川又米利
4(三)落合博満
5(遊)宇野勝
6(二)仁村徹
7(左)大豊泰昭
8(捕)中村武志
9(投)西本聖

文=犬企画マンホール 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング