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逆転野球人生

「生き残るために」内野に外野、時に捕手でも…「史上最高の脇役」木村拓也【逆転野球人生】

 

誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

当初は任意引退選手扱いの練習生


日本ハム広島巨人[写真]と3球団で19年間、プレーした木村


 その男は誰もが夢を見るプロ野球の世界で、現実を見て生き残った。

 木村拓也は挫折と挑戦を繰り返し、便利屋として自分の生きる道を必死に探したのである。そのフォア・ザ・チームの姿勢が首脳陣からは重宝され、チームメイトやファンからは愛された。巨人時代に同僚だった大道典嘉によると、“キムタク”はいつも口グセのようにこう言っていたという。

「大砲ばっかり揃えても、チームは勝てないんだ、と。僕らみたいのがいてチームはやっぱり勝つんですよ、と。決して主役にはならない。でもチームには必要な選手もいるんだと」(『一生懸命―木村拓也 決してあなたを忘れない』木村由美子/中央公論新社より)

 脇役の意地とプライド。宮崎南高時代、四番捕手で高校通算35ホーマーを放ち、自チームの投手を見に来た日本ハムのスカウトが、こいつの足と肩は使えると木村を90年のドラフト外で声をかける。しかし、初めてのキャンプではブルペンでプロの投手の球を捕れず、翌日には発熱でダウン。当初は支配下登録の60人枠から外れ、二軍戦にも出られない任意引退選手扱いの練習生として、ひたすらバットを振り、白球を追った。173cmの小さな体でも決してめげないハートの強さに、大沢啓二常務は「ウチはおとなしいのが多いが、あいつは元気があっていい。将来が楽しみだ」と評価した。

プロのスタートはドラフト外で入団した日本ハム。捕手から外野にコンバートされた


 2年目には外野に怪我人が続出したチーム事情もあり、足と肩を買われて外野転向へ。急なコンバートにも「どこだってやれといわれればできると思います。大きなチャンスですからね」と前を向く日本ハムの突貫小僧は、「今は初めての一軍キャンプで結婚どころじゃないですよ。でも、一軍で成績を残して、それを何年か続けたら、みんながびっくりするような相手と結婚会見をしたいですね」なんつって謎のハタチの決意宣言。さらにシーズン中盤に二軍のトップバッターが野球留学でいなくなり、入れ替わるようにファームでレギュラー定着すると、9月の消化試合で一軍に呼ばれ、西武戦で初安打も記録した。のちに週べのインタビューで、野球人生のターニングポイントとして、この“ツキも味方した2年目のプロ2打席目の初安打”をあげている。

「ピッチャーは呉(俊宏)さん。カーブ、カーブで2ストライクに追い込まれて3球目は、内角のストレート。あ、やばいと思った瞬間、審判はボールの声。命拾いをして、結局この打席は右中間に三塁打。この打席も仮に三振だったら、主審の村越さんがストライクのコールをしていたら、今の僕はなかったかもしれません」

 紙一重で明日の運命が変わるプロの世界。新人時代に自身を評価してくれた大沢親分が監督復帰した93年、初の開幕一軍を勝ち取るも代走と守備固めのみで、1か月で二軍行き。この3年目の秋、木村はハワイのウインターリーグに派遣され、同室となった若者に刺激を受ける。一歳下の彼は毎日、早起きしてしばらくすると汗だくで部屋に戻ってくる。ある朝、こっそりあとをつけるとウエート・トレーニングをやっていた。その男の名はオリックス鈴木一朗、翌年に210安打を放つイチローである。その妥協なき野球への取り組みを垣間見た木村は、「俺はこのままではダメだ」と危機感を募らせたという。

新天地で出場機会を増やすために


 迎えた94年、外野手兼第三捕手として次第に重宝されるようになる。週べ94年5月30日号では「地味な仕事にキラリと輝くひと筋の光」というキムタク紹介記事が掲載されている。強肩を生かして外野の守備固め、さらにはプルペン捕手と陰の存在感が際立つ縁の下の力持ち。首脳陣から「ひょっとしてということがあるからな、準備だけはしておいてくれ」と言われ、プルペンで味方投手のデータを懸命に収集した。だが、81試合に出場してようやく一軍で手応えを感じていた矢先、元新人王の長冨浩志との交換トレードで広島へ移籍する。まだ22歳。なんで自分が、という不満がないと言ったら嘘になるが、腐っているヒマはなかった。

広島ではスイッチヒッター、内野にも挑戦し、徐々に首脳陣からの信頼を得ていった


 新天地のカープ野手陣を見渡すと前田智徳野村謙二郎江藤智に加えて、レギュラー定着前の金本知憲緒方孝市と20代の錚々たるメンツが顔を揃えていた。唯一の世代交代のチャンスがありそうなのが、30代中盤のベテラン正田耕三が守る二塁だったので、二塁の守備練習に励み、なんとか出場機会を増やそうと、スイッチヒッターにも取り組んだ。キャンプでは休日を返上してマシン相手に500スイング。週べのインタビューでこう当時の心境をこう語る。

「このままでは、自分をアピールするものがないと思ってスイッチヒッターに取り組みました。だれかから言われたわけじゃなく、自分から、これでは一軍に上がれないと思ったんです。たまたまファームの打撃コーチがスイッチ経験者の山崎(隆造)さんだったというのも大きかった。それにこのチームは、努力したものにはチャンスを与えてくれる球団だったんです。それはもっと大きかったかもしれません」

アテネ五輪日本代表にも選ばれ、銅メダル獲得にも貢献した


 こうして97年は77試合、98年は86試合と着実にベンチの信頼を勝ち取り、内外野4種類のグラブを準備して試合に臨み、99年に自身初の開幕スタメン、さらに9年目のプロ初アーチ。そして、10年目の2000年には内外野で136試合フル出場を果たし、初の規定打席に到達すると打率.288、10本塁打、30打点、17盗塁のキャリアハイの成績をマークする。オールスターにも監督推薦で選ばれ、SMAPの木村拓哉と、同学年かつ同姓同名の一文字違いの“広島のキムタク”としても世の中に知られることになる(ふたりは人気テレビ番組『SMAP×SMAP』でも共演)。4年連続の規定打席クリア、04年にはアテネ五輪の代表メンバーにも選ばれた。合宿中に太ももを痛めるが、交代候補選手の所属球団が派遣を断り、そのままチームに残ると、カナダとの3位決定戦で5打数2安打2打点の活躍で銅メダル獲得に貢献。日本屈指のバイプレーヤーとしての地位を確立する。

「それでも、生きる道はある」


2006年6月に交換トレードで巨人へ移籍した


 普段は家族を愛し、ビールと麻雀が好きな普通の中年男が、グラウンドに立つとリアリストに変貌する。しかし、30代中盤になると腰痛にも悩まされ、ブラウン監督から若手起用に切り替えることを告げられると移籍を志願。06年6月に山田真介との交換トレードで巨人へ。当時の巨人と言えば、FA補強と逆指名ドラフト全盛で毎年のように大物選手を獲得していた。そんなチームで自分の出番があるのだろうか? だが、男の人生なんて一寸先はどうなるか分からない――。ズラリと主役級の大砲が並ぶ巨人打線だからこそ、キムタクのような何でもできる脇役の存在が生きた。

 08年には124試合に出場すると、打率.293、7本塁打、31打点でチームの連覇に貢献。09年9月4日のヤクルト戦では、ベンチ内の捕手登録選手がいなくなり、延長12回に自身10年ぶりの捕手として緊急出場する。無失点に切り抜け、原辰徳監督に抱きかかえられるように握手をする背番号0の姿は、誰よりも格好良かった。あの時、ナインやスタンドのファンは、キャッチャーマスクの向こう側に、キムタクの生き様を確かに見たのである。

2009年9月4日のヤクルト戦では捕手として緊急出場して役割をこなし、原監督[左]から激賞された


 両打ちを覚え、内外野だけでなく、捕手でも準備をして、複数球団を渡り歩きながら19年間もサバイバルし続けてきた百戦錬磨の仕事人。チームに必要とされることを考え抜き、懸命に今を生きた。通算1523試合出場、1049安打という成績を残し、09年限りで現役引退すると、翌10年から巨人の一軍内野守備走塁コーチに就任する。しかし、指導者として歩み始めた矢先、10年4月2日広島戦の試合前練習中にくも膜下出血でグラウンド上に倒れ、7日に37歳の若さで帰らぬ人となった。亡くなる約1か月前、NPB新人研修会で講演を行い、木村拓也は夢と希望に溢れるルーキーたちに向かって、こう語りかけている。

「ぼくは「こういう選手になろう」と思ってここまで来た選手ではありません。生き残るために、こうやるしか思いつかなかった結果が“ユーティリティープレーヤー”、“何でも屋”でした。それで、この世界で食ってこられたのです。レギュラーになる、エースになるは目標でしょうが、エリートばかりではありませんから、自分の力、能力の限界でそれが難しいと思い知らされる時が来ます。けれども、それでも、生きる道はあるのです」(『月刊ジャイアンツ』2010年7月号より)

文=中溝康隆 写真=BBM
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